その朝、フィロソフィー街は奇妙な静けさに包まれていた。
噴水の音だけが広場に響き、いつもならあちこちで議論を交わしている哲学者たちが、皆そろって黙りこくっている。
カワウソ探偵がふわふわの尻尾を揺らしながら広場に現れたとき、まず目に入ったのは、地面にへたり込んでいるニーチェの姿だった。
ニーチェ
「ニーチェさん、ご依頼の件で」
ニーチェはのろのろと顔を上げた。普段なら鞭を振り回し、ツァラトゥストラを引用し、弱者を罵倒する男が、今はただ呆然と空を見上げている。
「来たか、カワウソ」
「言葉が消えたと聞きました」
「俺の、一番、大事な言葉だ」
ニーチェは口を開きかけて、また閉じた。
「だめだ、口にできない。言うと、また消えていく」
カワウソはメモ帳をめくった。依頼書にはこう書かれていた。
依頼内容:私の代表的言明「神は◯◯◯」が、フィロソフィー街全域から消失。誰も口にできず、書物にも残らない。至急、調査を求む。 ニーチェ
「神は……死んだ、ですよね?」
カワウソが恐る恐る読み上げると、ニーチェの目に光が戻った。
「お前は、言える、のか」
「えっ、はい、今のところは」
「お前だけだ。街の中で、それを口にできるのは」
ふと気づくと、広場にいた哲学者たちが一斉にカワウソの方を振り向いていた。皆、口を半開きにして、何かを言いたそうにしている。
「カワウソ君……」誰かがか細い声で呼んだ。「そのまま、街中、回ってくれ。皆、その言葉を、聞きたがっている」
カワウソはぞっとした。これはただの言葉の消失じゃない。思想そのものが、何者かによって消されている。
メモ帳に、初動で考えるべき容疑者を書き出した。
容疑者
「全員から、話を聞こう」
カワウソはバッジを正し、最初の容疑者のもとへ向かった。
カントの散歩道
カント
ケーニヒスベルクと書かれた看板の下を、カントは正確な歩幅で歩いていた。午後三時三十分。ぴったりに散歩を開始するのが、彼の日課だ。
「カントさん、少しよろしいですか」
「失礼。私は今、散歩中だ」
「数歩だけご一緒させてください」
「……数歩なら」
カワウソはカントの隣に並んだ。カントの歩幅はぴったり七十二センチ。一秒に一歩。誤差なし。
「今朝、街から名言が消えました。ニーチェさんの「神は死んだ」です」
「結構なことだ」
カントは前を向いたまま答えた。
「結構、ですか」
「君は誤解している。私は宗教を擁護しているのではない。規則を擁護しているのだ」
「規則、ですか」
「先ほど君が口にした、あの……」
カントは一瞬、口を結んだ。
「ふむ。私は今、それを口にできぬようだな。仕方ない、あの命題と呼ぼう。あの命題を、誰もが自由に語れる世界を想像してみたまえ」
カントは歩幅を一切変えずに続けた。
「誰もが神の存在を否定できるなら、誰もが神への誓いを破れる。誓いは、約束は、契約は、その根拠を失う。社会は秩序を失う」
「でも先生、信仰のない人もいますよね」
「いる。だが、信仰の有無は問題ではない。規則そのものを成立させる原理が問題なのだ」
カントは指を一本立てた。
「君の行動原理が、すべての人類に普遍化されたとき、世界が成立するか。それを問いたまえ。私はそれを定言命法と呼ぶ」
「定言命法」
「あの命題を普遍化すれば、信仰の根拠が消える。信仰の根拠が消えれば、誓いが消える。誓いが消えれば、約束が消える。約束が消えれば、社会が消える」
カントは時計を見た。
「今、君と話している間、私の歩幅は変わらず七十二センチを保っている。一秒に一歩。なぜか分かるかね」
「規則を、守るためですか」
「違う。この歩幅を、すべての人類が採用しても、世界が成立するからだ」
カワウソは、この男の徹底ぶりに少し怖くなった。
「カントさん、ですから、消したい動機は」
「あった。だが、犯行はしていない」
「アリバイは」
「昨夜九時に就寝、今朝五時に起床。間に何かをしたなら、私自身の規律を破ったことになる。ありえない」
「ですが、もし規律を破る理由があったとしたら」
「ない」
「絶対に?」
「絶対に、だ」
カントは初めて立ち止まった。
「カワウソ君、君は私に例外を作ることを提案しているのか」
「いえ、そういうわけでは」
「私は嘘をつけない。それが私の哲学だ。「嘘をついてもよい状況がある」を普遍化すれば、人類のコミュニケーションが崩壊する」
カントは時計を見て、再び歩き始めた。
「失礼、規定の歩数まで残り三百二十歩だ。これ以上は話せない」
「最後に一つだけ」
「短く」
「先生は、ヘーゲル先生と最近会いましたか」
「会っていない。彼の弁証法は、私の定言命法と相容れない」
「相容れない、というのは」
「私は普遍化のテストで物事を判断する。彼は矛盾の止揚で物事を判断する。前者は静的な原理、後者は動的な運動だ。私は彼の方法を、規則を破ることの正当化だと考える」
カントは前を向いた。
「君の調査、頑張りたまえ。ただし、嘘はつくな。普遍化できないものは、最初からするべきではない」
カントは去っていった。カワウソは追わなかった。
カントは犯人ではない。少なくとも、自分から動いた線はない。だが、カントは「あの言葉を消したい」と思っていた、その心情だけは確認できた。動機はある。実行はしていない。
そして何より、カントはヘーゲルへの不信を、はっきりと口にしていた。
ヘーゲルの書斎
ヘーゲル
ヘーゲルの家は街の高台にある三階建ての書斎だった。一階に「即自」の間、二階に「対自」の間、三階に「即自かつ対自」の間と札がかかっている。
ノックをすると、上から声がした。
「上がってきたまえ。三階だ」
三階の部屋には、本が天井まで積み上げられ、その真ん中の机にヘーゲルが座っていた。
「ヘーゲル先生、お時間よろしいですか」
「もちろんだ。座りたまえ」
ヘーゲルは穏やかに微笑んだ。理性的で、自信にあふれ、礼儀正しい。
「単刀直入に伺います。今朝、街からニーチェさんの言葉が消えました」
「ほう、それは興味深いな」
ヘーゲルの表情はほとんど変わらない。
「昨夜から今朝にかけて、どちらに」
「ここで本を読んでいた。一晩中だ」
「証人は」
「いない」
アリバイなし。だが、それだけでは決め手にならない。
カワウソは部屋を見回した。哲学書が天井まで積み上げられ、棚という棚に詰まっている。
「先生、これだけたくさんの本を、すべてお読みに?」
「もちろんだ。哲学とは、ひとつの思想に閉じることではない。対立する思想と対話を続けることだ」
「対立する思想」
「例えば「存在」という命題があるとしよう。そこに「無」という対立する命題が現れる。両者は対立する。だが、対立は無意味な衝突ではない。両者はやがてより高次の概念へ統合される。「存在」と「無」から、われわれは「生成」という第三の概念に到達する。それを止揚と呼び、その運動を弁証法と呼ぶ」
「むずかしいですね」
「思想は、決して止まらない。対立を経て、新しい姿に変容する。それが私の哲学だ」
カワウソは正直、よく分からなかった。哲学者の言葉は難しい。だが、何かを覚えておくべき気はした。
「お話を聞かせていただき、ありがとうございました」
「いつでも来たまえ。哲学的対話は、私の喜びだ」
帰り際、カワウソは三階の部屋を見回した。本棚の一冊が、わずかにずれている。背表紙が裏返しになっている。
整然とした書斎の中で、その一冊だけが不自然だった。
カワウソは何も言わずに、その本のことをメモした。
本棚、裏返しの本、一冊あり。
ソクラテスの広場
ソクラテス
ソクラテスはいつもの広場で、若者を捕まえて問答を仕掛けていた。
「君、君、ちょっといいかね。君は「正義」とは何だと思う?」
若者は逃げた。ソクラテスは肩を落とし、次の犠牲者を探していた。
「ソクラテス先生」
「おお、カワウソ君か。ちょうどいい。君は「正義」とは何だと思う?」
「すみません、今日は別件で」
「では「真理」とは何だ?」
「いえ、調査の件で」
ソクラテスは目を輝かせた。
「調査か。素晴らしい。では、君が調査において追い求めているのは「真理」だな」
「そうですけど」
「真理とは何だ?」
「それは……」
カワウソは罠にかかったことに気づいた。質問に答えれば、その答えに対してまた質問が返ってくる。これがソクラテスの問答法だ。一度乗ったら出口がない。
「先生、まず私の質問にお答えください。今朝、ニーチェさんの言葉が街から消えました」
「ほう」
「「神は死んだ」、です」
「神とは何だ?」
「えっ」
「神とは何だ、と聞いている」
「それは……一般的には……」
「君の考える神は」
「カ、カワウソ的には……万物の創造者、ですかね」
「では、君は神の存在を信じているのかね」
「いえ、その」
「信じていないなら、なぜ神を語れる」
「先生、質問の方向が」
「答えてくれ」
「……分からないです」
「それでよろしい」
ソクラテスは満足げに頷いた。
「「分からない」、それが知の始まりだ」
カワウソは話を戻そうとした。
「えっと、消えた言葉のことなんですが」
「君は、消えるとは何だと思う」
「物理的に存在しなくなる、ということで」
「言葉は物理的なものか」
「いえ、概念ですね」
「概念は、物理的に消えるのか」
カワウソは固まった。
ソクラテスは言葉を続けた。
「言葉は、概念が形をとったものだ。概念そのものは、誰かが思い出す限り、消えない。今、街の哲学者たちはあの命題を口にできない。私もまた、今この瞬間、口にできずにいる。だが、それは消えたのか? それとも、口にできなくなっただけか?」
「……それは」
「考えてみたまえ。これは消失ではない。遮断だ」
カワウソははっとした。消えたのではなく、遮断されている。それは、思考の方向を大きく変えるヒントだった。
調子を取り戻して、カワウソは踏み込んでみた。
「先生、もしかして、ご自分で?」
「ほう、君は私を疑うのか」
ソクラテスは目を細めた。
「動機は?」
「えっと、思想の解体、とか」
「私は問うだけだ。答えを出すのは、問われた者だ。私は何も解体しない。解体は、問われた者が自らの中で行う」
ソクラテスはふと真顔になった。
「だが、君が私を疑う気持ちは正しい。誰しも、何かを犯す可能性は持っている。私もまた、例外ではない」
カワウソは内心、震えた。これは、自白か?
「私は問うだけだ。だが、街には、問いに答えを与えようとする者がいる。長年、私はそれを批判してきた」
「答えを、与える者」
「問答は答えを差し出さない。だが、答えを差し出す哲学は、思想を一つの形に閉じてしまう。それは思想の死だ」
ソクラテスは深く息を吐いた。
「私が言えるのは、ここまでだ。これ以上は、君が自分で考えなさい」
ソクラテスは立ち去ろうとして、もう一度、カワウソを振り返った。
「カワウソ君、最後に一つだけ問いたい」
「はい」
「「嘘」とは何だ?」
「えっ」
「私は今日、君に嘘をついたかね?」
カワウソは答えられなかった。
ソクラテスは穏やかに笑い、人混みの中へ消えていった。
ディオゲネスの樽
ディオゲネス
街外れの空き地に、大きな樽が一つ転がっている。ディオゲネスは、その中に住んでいる。
「ディオゲネスさん、いらっしゃいますか」
「邪魔だ。退け」
樽の中から、不機嫌な声がした。
「すみません、調査で参りました」
「邪魔だ」
「ニーチェさんの言葉が」
「邪魔だ」
「「神は死んだ」が」
「俺は神より先に、神の名を口にする奴を嫌う」
ディオゲネスは樽から顔を出した。髭ぼうぼうで、目が鋭い。手には、なぜか昼日中だというのに、火の灯ったランタンを持っている。
「先生、なぜ昼間にランタンを」
「人間を探している」
「人間ですか? たくさんいますよ」
「本物の人間を探している」
ディオゲネスは歯を見せて笑った。
「だが、まだ見つからん。お前は、本物か」
「カワウソですけど」
「ふん、それが正直で結構」
ディオゲネスはランタンを置き、樽の縁に腰掛けた。
「で、何の調査だ」
「ニーチェさんの「神は死んだ」が、街から消えました」
「消えても困らん。むしろ清々する」
「動機はおありだと」
「動機? あの坊やは「超人」だの「永劫回帰」だの、大層なことを言うが、結局は俺の樽の中の哲学を盗んでるだけだ」
「盗んでる、ですか」
「俺は「何も持たない」を実践した最初の哲学者だぞ。神も、財も、名誉も、家も。すべて捨てた。俺は犬のように生きる」
ディオゲネスは樽を叩いた。
「この樽が、俺の家だ。俺はここで寝る、ここで食う、ここで考える、ここで用を足す。それがなんだ。誰にも迷惑はかけていない」
「いえ、用を足すのは……」
「人間だけが、自分の自然を恥じる。他のすべての動物は、自然なままに生きる。なぜ人間だけが、装飾と虚飾の中で生きる必要がある」
カワウソはメモを取った。動機はある、思想的にも、感情的にも。
「昨夜は何を」
「樽で寝ていた」
「証人は」
「樽」
「樽は証人になれません」
「樽が証人になれないなら、何が証人になれる」
ディオゲネスはランタンを再び持ち上げた。
「証人とは、誰かの存在を保証する者だ。だが、人間はみな互いの存在しか保証できない。誰もが嘘をつき、誰もが間違える。樽は嘘をつかない。樽の方が、よほど信頼できる」
カワウソは、この理屈の前に何も言えなかった。
「ディオゲネスさんに率直にお伺いします。事件への関与は」
「俺は犯人じゃない。なぜなら、犯人なら俺はもっと派手にやる。ニーチェの言葉を一つだけ消すなんて、ちまちました真似はしない。俺なら、街中の哲学者全員から「偉そうな言葉」を全部消してやる」
それはそれで的を射ていた。
「昨日、誰かここに来ましたか」
「ヘーゲルの坊やが、昼ごろ来た」
「えっ、ヘーゲルさんが?」
「あの男は、たまに来る。俺の樽の前で、『精神現象学』を読んで聞かせてくる。俺の意見を聞きたいんだとよ」
「先生は、何と」
「「黙れ、日陰になっている」とだけ答えた」
ディオゲネスは満足げに笑った。
「ヘーゲルが帰った後、樽の周りに、本のページが何枚か散らばっていた。読まずに捨てた」
「捨てた」
「俺は、書かれた哲学を信じない。生きた哲学だけを信じる」
カワウソは樽の周りに散らばっている紙切れに気づいた。拾い上げてみると、誰かの哲学書の途中のページだった。よく見ると、連続するページ番号の途中一枚だけが抜き取られているようだ。
「先生、これはヘーゲル先生が置いていったものですね」
「捨てたんだ。気にするな」
「持っていってもいいですか」
「持っていけ。ゴミだ」
カワウソは紙切れを丁寧にメモ帳に挟んだ。
去り際、振り返ってディオゲネスを見た。樽の中に戻った男は、ランタンの火を吹き消し、目を閉じた。
「カワウソ」
「はい」
「お前は、何を持っている」
「えっ」
「お前の所有物だ。何を持っている」
「えーっと、メモ帳と、バッジと、虫眼鏡と」
「全部捨てろ。何も持たないことが、最も自由だ」
「いえ、お仕事で必要なんで」
「ふん、まあいい」
ディオゲネスは樽の中で寝返りを打った。
「お前は、まだ本物にはなれんが、嘘をついていないだけ、ましだ」
カワウソはお辞儀をして、樽を後にした。
マルクスの工房
マルクス
街の東に、煤で黒ずんだ工房がある。マルクスは仲間と一緒に、印刷機を回していた。
「カワウソ君、こんな時間に何だね」
「ニーチェさんの言葉が消えた件で」
「ああ、知っている」
マルクスは手を止めた。
「「神は死んだ」、だな」
マルクスはあっさりと口にした。マルクスは口にできるのだ。
「マルクスさん、その言葉を口にできますか」
「もちろんだ。私もまた、その命題に近い立場をとってきた。宗教は民衆のアヘンだと言ったのは、私だ」
「僕以外で口にできる人は」
「私だけかもしれんな」
マルクスは煤で汚れた手を布で拭った。
「だが、私は犯人ではない。私が動くなら、ニーチェの個別の言葉ではなく、宗教言説そのものを街から一掃する。彼の言葉だけを狙うのは、私のスタイルではない」
これもまた、納得のいく理屈だった。
「マルクスさんから見て、犯行可能な人物は」
「さて、難しい問いだ」
マルクスは煙草に火をつけた。
「私が答えるのは公平ではない。私には学派的な恨みも、思想的な対立もある。先入観が混じる」
「ヒントだけでも」
「強いて言えば、これは思想を扱える誰かの仕業だ。言葉を消すのではなく、置き換えている。それが私の見立てだ」
「置き換える、ですか」
「そうだ。命題は完全に消えたのではなく、別の場所に形を変えて保存されているはずだ。なぜなら、思想とは消えるものではない。変容するものだからな」
マルクスは煙を吐いた。
「カワウソ君、君は今日、五人を回ったろう。その中の誰かが、君に最大のヒントをすでに与えている。それに気づくかどうかは、君次第だ」
工房を出るとき、カワウソはふと振り返った。マルクスの机の上に、本が三冊積まれていた。タイトルは見えないが、付箋が大量に貼られている。
事務所のデスクにて
夕方、カワウソは事務所に戻り、メモ帳を広げた。五人の証言を並べる。
カント:消したい動機はある。だが規律ゆえに動かない。ヘーゲルの弁証法を「規則を破ることの正当化」と批判。
ヘーゲル:アリバイなし。弁証法を熱心に語った。本棚に裏返しの本一冊。
ソクラテス:問答では言葉そのものは消せない、と本人が証言。「答えを与えようとする者」の存在を示唆。
ディオゲネス:派手な犯行ではない、と自己申告。樽の周りに破れたページ。昨日ヘーゲルが訪問。
マルクス:「言葉は消えていない、置き換えられている」「変容するもの」。机の上に三冊の本。
マルクスとソクラテスの言葉が、カワウソの頭に交互に響いていた。
思想とは消えるものではない。変容するものだ。
これは消失ではない。遮断だ。
二人とも、同じことを言っている。命題は消えていない。形を変えて、どこかにある。
カワウソはメモ帳のページをめくり、ディオゲネスの樽から拾った紙切れを取り出した。哲学書の途中のページだ。連続するページ番号の途中、一枚だけが抜き取られている。
紙切れの隅に、印刷された見出しがあった。
否定と止揚
カワウソは息を呑んだ。
これは、弁証法の解説ページだ。
ヘーゲルの本棚で見た、裏返しの『精神現象学』。 マルクスの机の上の、付箋だらけの本。 ディオゲネスの樽の周りに散らばっていた、破れたページ。
三つが、すべて同じ本だった。
ヘーゲル自身が、街に自分の理論を散らしていた。
ソクラテスの言葉も蘇る。
街には、問いに答えを与えようとする者がいる。
ヘーゲルだ、とカワウソは確信した。彼の弁証法は、まさに対立に「答え」を差し出す哲学だ。
カワウソはバッジを正し、もう一度、ヘーゲルの書斎へ向かった。
再びヘーゲルの書斎へ
ヘーゲルは三階の部屋で本を読んでいた。
「先生、もう一度、伺ってもよろしいですか」
「もちろんだ。何度でも来たまえ」
カワウソは本棚の前に立った。先ほど見た裏返しの『精神現象学』を、ゆっくりと取り出した。中を開くと、ある一節に赤線が引かれていた。
否定は、それ自体において新たな命題を生む。 古き命題は、保存されつつ廃棄され、より高次の概念へと止揚される。
そして、本の隙間に、紙切れが挟まっていた。
その紙切れには、こう書かれていた。
「神は死んだ」 + 「神は生きている」 = 「神は概念として永遠に止揚される」
カワウソは紙切れをヘーゲルに差し出した。
「先生、これはあなたの筆跡ですよね」
「……」
ヘーゲルは目を細めた。
「私が書いたのは事実だ」
カワウソは深呼吸した。ここからが、推理の核心だった。
「先生、お聞きしてもよろしいですか」
「何でも答えよう」
「弁証法は、対立する二つの命題から、より高次の概念を生む。そう、おっしゃいましたね」
「その通りだ」
「では、対立する命題が最初から存在しなければ、より高次の概念も生まれませんよね」
「それは……」
ヘーゲルは初めて言葉を詰まらせた。
「無論、不可能だ。対立がなければ、止揚はない」
「このメモにあるとおり、あなたはニーチェさんの「神は死んだ」を消したのではなく、止揚したと考えていらっしゃる」
「そうだ」
「ですが、街の人々は「神は死んだ」を思い出すこともできなくなった。出発点となる命題そのものが消えたんです」
「……」
「出発点が消えれば、止揚は成立しません。あなたが行ったのは、止揚ではなく、ただの抹消です」
ヘーゲルは長く沈黙した。
やがて、ゆっくりと立ち上がり、書棚の前に立った。
「君は、辿り着いた」
ヘーゲルは振り返らずに言った。
「先生」
「私は、街から一つの命題を消した。それは罪だ」
ヘーゲルは静かに頷いた。
「だが、考えてみてほしい。罪を犯した瞬間、世界は「失われた命題」というアンチテーゼを抱える」
カワウソは息を呑んだ。
「そして君が現れた。五人の証言を巡り、矛盾を組み立て、新たな答えに辿り着いた」
ヘーゲルはゆっくりと振り返った。
「君が辿り着いた答えこそが、ジンテーゼだ」
「えっ」
「テーゼは「神は死んだ」。私はそれを消した。生まれたアンチテーゼは「その命題が存在しない世界」だ。そしてジンテーゼは……」
ヘーゲルはカワウソを真っ直ぐに見た。
「ニーチェ自身ではなく、無関係な探偵が、その不在を解明する、という事実そのものだ。命題は、より高次の物語の中に止揚された」
カワウソは思わず後ずさった。
「先生、それは詭弁です」
「そうかもしれぬ」
ヘーゲルは穏やかに笑った。
「だが、これだけは言える。新しい答えに辿り着いたこと、それこそが、私の求めていたことだ」
ヘーゲルは机の引き出しを開け、紙を取り出した。
「私は、ニーチェの命題が、ニーチェの所有物のままで朽ちていくのを、見たくなかった。あの命題は、もっと先に進めるはずだった」
紙の上には、こう書かれていた。
「神は死んだ」
「だから、消した。誰かが、再び見つけ出すまで」
ヘーゲルは紙を広場のほうへ放った。紙はゆっくりと舞い、街の方向へと飛んでいった。
その瞬間、街中の哲学者たちの口から、一斉に同じ声が漏れた。
「神は、死んだ!」
ニーチェの叫び声が、広場まで届いた。
「俺の、言葉だ! 戻ってきた!」
依頼完了
カワウソは戸惑ったまま、ヘーゲルを見上げた。
「先生は、犯人なのに、誇らしげですね」
「私は、敗北を味わいたかったのだ」
ヘーゲルは机に腰を下ろした。
「弁証法は、誰かが破ってくれなければ、ただの自己完結した運動に過ぎない。他者によって乗り越えられることが、思想にとって最も尊い」
カワウソは何も言えなかった。
「君に、私の力を貸そう」
「先生」
「合一の眼を授ける。二つの矛盾する事実を、一つの真実に統合する力だ。これからの調査に、役立てたまえ」
カワウソは黙ってお辞儀をした。
「ところでカワウソ君、君は今回の事件を通じて、何を学んだ」
「弁証法の構造、ですね」
「正確には」
「テーゼとアンチテーゼの対立から、ジンテーゼが生まれる。しかし、テーゼが消えれば、ジンテーゼも成立しない。統合は、対立の保存のうえに成り立つ」
「素晴らしい」
ヘーゲルは満足げに頷いた。
「君は哲学者になりつつある」
「探偵です」
「同じことだ」
エピローグ
その夜、カワウソは事務所のデスクで、メモ帳をめくっていた。
仲間:1人(ヘーゲル) 学んだ思想:弁証法 街角の噂:哲学者たちが「選択ができない病」に侵されているらしい。樽を抱えたディオゲネスが事務所に向かっている、という目撃情報も
ふと、メモ帳の最後のページに、自分でも書いた覚えのない文字があった。
これは始まりに過ぎない。フィロソフィー街には、まだ多くの事件が眠っている。 そして、ヘーゲル先生もまた、誰かに唆されたのかもしれない。 街の影で、誰かが哲学者たちを動かしている。
カワウソはメモ帳を閉じた。
窓の外、月が街を照らしている。ニーチェが鞭を振り回しながら歩いていた。「神は死んだ!」と、楽しそうに叫んでいる。
その向こう、印刷工房の窓辺に、煙草を吸うマルクスの影が見えた気がした。だが、目を凝らしたときには、もう影は消えていた。
カワウソは小さく息を吐いた。明日もまた、フィロソフィー街は、にぎやかな一日になりそうだった。
(第一話 了)