『伝奇集』
でんきしゅう
ボルヘス·現代
ボルヘスの短編集
この著作について
ホルヘ・ルイス・ボルヘスがブエノスアイレスの市立図書館で働きながら書き継いだ短編を集めた作品集で、二十世紀文学の風景を一変させた一冊。
【内容】
「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」は百科事典の偽の項目から世界がもう一つ立ち上がる物語、「バベルの図書館」は書物の順列組み合わせによって宇宙を尽くす無限の図書館、「円環の廃墟」は夢のなかで他者を作り出した者が自分もまた誰かの夢であることを知る掌編、「八岐《やまた》の園」は時間が無限に分岐する小説の構想を探偵小説に畳み込んだ名作である。いずれも短いのに、哲学的な無限・同一性・書物・迷宮・分身の主題が、紛れもない文学の手ざわりとともに差し出される。
【影響と意義】
ラテンアメリカ文学のブームを牽引したのみならず、フーコーやデリダをはじめ現代思想の読者にも繰り返し参照された。カルヴィーノ、エーコ、ピンチョン、村上春樹、そしてハイパーテキストや生成AIをめぐる議論まで、本書のイメージはさまざまな分野の語彙を更新し続けている。
【なぜ今読むか】
情報が無限に分岐しパターンがAIによって組み合わされる時代の直観を、ボルヘスは七十年以上前に文学として先取りしていた。短く読めて、思考の地平を一気に広げてくれる本である。
さらに深く
【内容のあらまし】
『伝奇集』は二部構成で、第一部「八岐の園」と第二部「工匠集」に短編が並ぶ。最初の一編「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」は、語り手とビオイ=カサーレスがある夜の会話の途中で、見つけた百科事典の特別版に「ウクバール」という存在しない国の項目を発見する場面から始まる。その項目はやがて、トレーンと呼ばれる架空の惑星の文化全体に広がっていき、世界を統べる秩序が言語と観念主義に基づくものとして描き出される。物語の結末で、その想像上の世界の事物が現実の地球に少しずつ漏れ出してくる、という不穏な逆流が示唆される。
「バベルの図書館」では、すべての可能なアルファベット組み合わせの本が並ぶ無限の図書館が、宇宙そのものとして描かれる。司書たちはどこかにあるはずの「総目録」を求めて廊下をさまようが、それを誰も見つけたことはない。「円環の廃墟」では、ある男が河岸の廃墟で長い夢を見続け、夢のなかで一人の青年を細部まで作り出すことに成功する。だが森が燃え始め、火に包まれても自分が傷つかないと知った瞬間、彼は自分自身もまた誰かに夢見られた存在だと悟る。
第一部の表題作「八岐の園」は、第一次大戦中の中国人スパイ、ユイ・ツンの独白として書かれる。彼は祖先が遺した一冊の不可解な小説の謎を、英国人東洋学者アルバート博士の家で初めて解き明かされる。その小説では、登場人物がある選択を迫られるたび、すべての可能性が同時に成立し、物語は無限に分岐していく。時間そのものが分岐する迷路として描かれている、という解説が、後の物理学やハイパーテキスト論を予言するように響く。やがてユイ・ツンは目的を遂行するため、目の前のアルバート博士を撃つ。
他にも、二人の神学者が異端と正統の役を交互に演じる「神学者たち」、何度殺されても繰り返し蘇る相手と戦う「死とコンパス」、『ドン・キホーテ』と一字一句同じ作品を独力で書こうとする作家の伝記「ピエール・メナール」など、無限・同一性・著者・迷宮の主題が次々と変奏される。短い作品集だが、読み終えると、文学とはいったい何ができる装置なのかという問いを根本から書き換えられる感覚が残る。
著者
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