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専門編 · 20世紀の哲学者たち · 第71

サルトル:自由という重荷

1945年10月29日、パリのクラブ・マントナンで「実存主義ヒューマニズムである」と題するサルトルの講演が予定されていました。会場は予想を超える聴衆ちょうしゅうあふれ、ドアが押し倒され、女性が気を失ったといいます。占領下パリから解放されたばかりの人々は、神なき世界をどう生きるかの新しい言葉を求めていた。本章ではこの哲学者の生涯と思想の全体を辿ります。

カフェ・ド・フロール — 契約結婚と知的協働

1929年、24歳のサルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールはエコール・ノルマル・シュペリウールの教員資格試験で出会います。彼が首席、彼女が次席。二人はその年に「2年間の契約結婚」を交わしました。「私たちの愛は必然的だが、他者との偶然の関わりも互いに尊重する」というのが約束でした。この契約は途中の動揺を抱えながらも、生涯にわたって続きます。

パリ6区のカフェ・ド・フロールやレ・ドゥー・マゴが、彼らの「事務所」となります。サルトルは午前中フロールで執筆し、午後ボーヴォワールと打ち合わせ、夕方には別の若い作家や恋人と過ごす。家族・所有・性的排他性はいたせいといった既存の枠組みを意図的にずらし、知的協働と恋愛を別軌道に組み立て直すこの実験は、20世紀の知識人カップルの一つのモデルとなりました。

即自と対自 — 自己欺瞞という診断

1943年、占領下パリで出版された存在と無は、現象学的存在論の大著です。サルトルは存在を即自そくじ対自たいじの二様態に区別します。即自とは石や机のように自己同一的にそれ自身であるありかた。対自とは意識のありかたで、自分自身に対して距離を取り、現にあるものではないものに向かって絶えず開かれている。意識は自分が「何ものでもない」という否定性によって、世界に意味の地平を切り開く存在なのです。

対自としての意識は、選ばないという選択さえ含めて、絶えず自由のなかに置かれています。「人間は自由の刑に処されている」と彼が書くとき、自由は祝福ではなく重荷でもあります。この重荷から逃れる典型が自己欺瞞じこぎまんです。「自分は単なる給仕の役割にすぎない、状況がそうさせたのだ」と語ることで、対自の自由を即自の必然へ滑り込ませる。実存主義はこの自己欺瞞を診断する倫理的姿勢として読むこともできます。

他者の眼差しと「地獄とは他人のことだ」

『存在と無』第三部の他者論は、他者の眼差しによって自分が即自的客体に固定される経験を描きます。鍵穴かぎあなのぞいている自分が背後の足音で「覗き見する人」として凍りつく瞬間。他者は私の自由の限界としてだけでなく、私が自分自身を対象として知る経路としても現れる。

1944年の戯曲出口なしの有名な台詞「地獄とは他人のことだ」は、これを劇場の言葉に翻訳したものです。死後の三人の登場人物が小部屋に閉じ込められ、互いの視線で永遠に客体化され続ける。サルトルはこの台詞が誤解されていると後年強調しました。彼が言いたかったのは、他者一般が地獄なのではなく、他者の視線に依存しきって生きることが地獄なのだ、と。アンガージュマン(社会への参加)はこの依存を引き受け直す倫理として構想されました。

ノーベル賞辞退と1968年五月革命

1964年、サルトルはノーベル文学賞を辞退します。「いかなる公的な栄誉も作家を制度に取り込み、自由を損なう」という理由でした。スウェーデン・アカデミーへの公開書簡は、知識人が自分の言葉に対して持つ責任の独特な姿勢を示しています。同じ年、彼は自分の幼少期を分析した自伝言葉を出版し、これが事実上の受賞理由となっていました。

1968年5月、パリの大学が学生たちに占拠されたとき、63歳のサルトルはソルボンヌの大講堂で若者たちと討議しました。マルクス主義への接近、毛沢東主義新聞の路上配布ろじょうはいふ、ベトナム反戦運動。彼は哲学者であることをやめずに、絶えず政治の最前線に身を置き続けます。1980年4月19日の葬儀には5万人がパリの街路がいろを埋めました。次章では、この契約結婚の片割れであるボーヴォワールと、不条理に向き合ったカミュに進みます。