専門編 · 20世紀の哲学者たち · 第70章
ウィトゲンシュタイン:言葉の限界を二度引く
1911年秋、22歳のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはケンブリッジのバートランド・ラッセルの研究室を訪ねます。「教えてください、私は完全な馬鹿でしょうか? もしそうなら、飛行士になります。違うなら哲学者になります」。ラッセルは数か月後に答えました。「君は天才かもしれない」。本章ではその後40年の異様な生涯と、二度の哲学を辿ります。
ウィーンの鉄鋼王の末子 — 三人の兄の自殺
ウィーンの大富豪カール・ウィトゲンシュタインは、ヨーロッパで最も裕福な実業家の一人でした。家にはブラームスやマーラーが訪れ、長兄パウルは戦争で右腕を失った後もピアニストとして活躍した。そしてルートヴィヒは末子として、最高の家庭教師による徹底教育を受けます。ところがこの恵まれた家系で、三人の兄が次々と自殺しました。
ベルリンとマンチェスターで航空工学を学んだ彼は、プロペラの設計を通じて数学の基礎に関心を持ち、フレーゲを訪ね、ラッセルに勧められてケンブリッジに移ります。ノルウェーの小屋で半年隠棲し、出てきたかと思うと志願して第一次大戦の塹壕に入った。彼の知的活動の背後には、いつも兄たちと同じ自死への引力が張り付いていました。哲学は彼にとって生き延びるための戦いでもありました。
塹壕の『論理哲学論考』 — 写像理論と「梯子を捨てよ」
1916年、東部戦線の塹壕で書きとめられたノートが、後の『論理哲学論考』の原型です。捕虜となったイタリアの収容所で清書を完成させ、1921年に出版されました。7つの主命題と階層的な番号体系で書かれた異様なテキストです。世界は事実の総体であり、事実は事態の成立として構造化される。命題はこの構造を映し出す絵として機能する、というのが写像理論の骨格でした。
『論理哲学論考』の射程は、語りうるものの境界を引くことで、その向こう側を消極的に指し示すことにありました。倫理・美学・神秘的なもの・人生の意味は、命題で語ることができません。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という最終命題は、無視せよという意味ではなく、命題の彼方にこそ最も重要なことが宿るという独自の含意を持っています。読者は梯子を登り終えたら梯子を捨てねばならない、と彼は書きました。
教師、庭師、そしてケンブリッジ復帰
『論理哲学論考』で哲学の問題はすべて解決したと信じた彼は、巨額の遺産を兄姉に放棄し、オーストリアの僻村で小学校教師となります。ところが児童を強く殴って告訴され、教職を辞任。修道院の庭師、姉のためのウィーン邸宅の設計などを経て、自分の前期思想に綻びを見出していきます。
1929年、彼はケンブリッジに戻り、『論理哲学論考』を博士論文として提出しました。審査員のラッセルとムーアは「この本に審査員が口出しできる余地はない」と当惑しながら学位を授けます。以後20年、ウィトゲンシュタインは前期の自分を解体する作業に没頭しました。死後の1953年に出版される『哲学探究』は、その20年分の労働の集約となります。
言語ゲームと「素晴らしい人生だった」
後期の中心概念が言語ゲームです。命令する、報告する、冗談を言う、祈る。言葉は実在の対象との対応によってではなく、無数の活動と織り合わさった生活形式のなかで意味を持つ。「ゲーム」と呼ばれる活動にすべて共通する本質はなく、重なり合う類似の網があるだけだ、というのが家族的類似の発想です。意味は使用にある、というテーゼがここから導かれます。
『哲学探究』後半の規則遵守論は、規則がそれだけで適用を決定できないという困難を浮かび上がらせ、後にクリプキにより規則のパラドクスとして再定式化されます。1951年4月29日、前立腺がんと闘っていたウィトゲンシュタインは、最後に医師の妻に短く告げました。「私は素晴らしい人生を送ったと、皆に伝えてくれ」。次章は、海峡の向こうでこの分析的な世界とは別の倫理を打ち立てた、サルトルに進みます。
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