『形而上学』
けいじじょうがく
古代
アリストテレスが存在・実体・原因を体系的に論じた哲学の根本テキスト
この著作について
アリストテレスが存在そのものを主題とし、後に「第一哲学」と呼ばれる領域を切り開いた哲学史の根本書。
【内容】
「すべての人間は、生まれつき知ることを欲する」という一文で幕を開け、「あるとはどういうことか」を問い続ける。質料・形相・作用・目的という四原因論、可能態と現実態、実体(ウーシア)の分析を通して、変化する世界の根底にある構造を探る。最終巻では、みずからは動かずに万物を動かす「不動の動者」としての神的知性が論じられ、自然学から神学へと議論が一気に押し上げられる。
【影響と意義】
編者アンドロニコスが『自然学』の「後に置かれた書」として編んだことから「メタフィジクス」という語が生まれ、以後の西洋哲学における形而上学の枠組みそのものとなった。トマス・アクィナスのスコラ哲学、近世の実体論、さらにはハイデガーの存在論批判まで、本書との対話なしには成立しない。
【なぜ今読むか】
AIや脳科学が「知能とは何か」を問い直す時代に、「知ることへの欲求は人間の本性だ」と言い切った最古の宣言は、学ぶという営みそのものの価値を静かに支え直してくれる。
どの訳で読むか
1冊で通して読みたいなら講談社学術文庫の岩崎訳、2冊に分かれてもよければ岩波文庫の出訳が目安になる。出訳は電子書籍でも読める。どちらも目次に章ごとの内容の見出しが並ぶので、読みたい箇所を目次から探せる。
さらに深く
【内容のあらまし】
全14巻で、巻はギリシア文字で呼ばれる。第1巻の大アルファのあとに、小アルファが第2巻として入る。
第1巻は冒頭の一文の証しに、人は役に立たなくても感覚を、とりわけ見ることを好むと述べる。知恵を第一の原因と原理の学と定め、人が哲学を始めたのは驚きからで、役立てるためではなく知るためだったと言う。続いて、タレスからプラトンまでの先人を順に査定し、イデアを範型と呼ぶのは空虚な言葉、詩的な比喩にすぎないと退ける。
第2巻は、真理の探究は、誰も外さない戸口のようだという点でやさしく、部分をつかめない点で難しいと言う。難しさの原因は私たちの知性にありうる。本来もっとも明らかなものごとに対して、知性は昼の光に向かうコウモリの目に似ている。第3巻は、結び目を知らなければほどけないとして、まず難問を並べる。
第4巻で、「存在としての存在」を研究する学が宣言される。「ある」は多くの意味で語られるが、「健康的」が健康に関係づけられるように、一つのものに関係する。最も確実な原理は、同じ性質が、同じものに、同時に同じ点で、属しかつ属さないことはありえない、というものだ。証明はできないが、相手が意味のあることを語るなら論駁でき、何も語らない者は植物と変わらない。否定を唱える者も、メガラへ行くべきだと思えば家を出て歩き、井戸には落ちないよう用心すると指摘する。第5巻は哲学用語集、第6巻は理論学を数学、自然学、神学に分け、神学を最上位に置く。
第7巻は、昔も今も問われ、いつも行き詰まる「存在とは何か」の問いは「実体とは何か」の問いだ、と言い直す。青銅の球を作る職人が生み出すのは、球の形でも青銅でもなく、この素材にこの形を入れた全体だ。第8巻は、家を石や煉瓦や木材と定めるのは可能的な家、容れものと定めるのは現実の家、両方を合わせれば素材と形の結合体だと分ける。第9巻は、建てているときにしか建てる能力はないというメガラ派に反論し、現実態は定義でも実体でも可能態に先立つが、時間では先とは限らないと論じる。第10巻は「一」を扱い、第11巻は第3巻、第4巻、第6巻の要約と『自然学』からの抜き書きである。
第12巻で議論は頂へ登る。動かされずに動かすものは、愛されるものとして動かす。神は永遠で最善の生きものだとされ、神の知性は、最善のものであるなら自分自身を思惟し、思惟の思惟だと論じる。巻は、実体ごとに別の原理を立てる説を、世界は悪く統治されることを望まないと退け、ホメロスの一句「多数の支配はよくない。支配者は一人であれ」で閉じる。第13巻と第14巻は、数学的対象やイデア、数を実体とする説を吟味し直す。
著者
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