
龍樹(ナーガールジュナ)
りゅうじゅ(Nagarjuna)
150年 — 250年
空の哲学を体系化した大乗仏教の論師
この人物について
「空」の哲学を論理的に徹底した大乗仏教最大の哲学者。あらゆる固定観念を打ち砕く論理で、仏教思想の根幹を築いた「八宗の祖師」。
【代表的な思想】
■ 空(シューニャター)
あらゆる存在は自性《じしょう》(固有の本質)を持たず、相互依存的な関係(縁起)の中でのみ成り立つとした。空とは「何もない」という虚無ではなく、固定的な実体への執着を破ることで真の実在の姿を見ることである。後世、この思想を圧縮して凝結した『般若心経』は東アジア仏教徒に最も広く読誦される経典となった。
■ 八不中道《はっぷちゅうどう》
不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去という八つの否定によって、あらゆる二項対立的な思考の限界を示した。存在についてのどんな断定も究極的には成り立たないことを論証した。
■ 二諦説《にたいせつ》
世俗諦《せぞくたい》(日常的な真理)と勝義諦《しょうぎたい》(究極的な真理)を区別し、日常の言語や概念を否定するのではなく、その限界を自覚した上で活用することの重要性を説いた。
【特徴的な点】
ブッダが実践的な教えに重点を置いたのに対し、ナーガールジュナは厳密な論理によって空の思想を哲学的に体系化した。帰謬論法《きびゅうろんぽう》(相手の主張の矛盾を示す方法)を駆使し、自らは積極的な主張を立てないという独特のスタイルをとった。
【現代との接点】
脱構築や相対主義との比較で現代哲学でも注目される。固定的なカテゴリーに囚われない柔軟な思考法は、複雑な現代社会の問題解決にも示唆を与えている。
さらに深く
【思想の形成】
ナーガールジュナは二世紀から三世紀にかけて南インドで活動した大乗仏教の論師で、龍樹と漢訳される。バラモンの家に生まれ若くして四ヴェーダを修めたが、歓楽にふけった末に同志を失い、仏門に入ったという伝承が『龍樹菩薩伝』に残る。北インドで部派仏教の教理を学んだ後、雪山《せっさん》の大龍菩薩《だいりゅうぼさつ》から般若経典を授かったと伝えられるのは、大乗の諸経典との深い関わりを示す伝説である。晩年は南インド、サータヴァーハナ朝の王の庇護のもとで著述と教育に専念した。主著『中論』をはじめ、『廻諍論』『空七十論』『六十頌如理論』『宝行王正論』など多彩な論書が知られる。
【思想的意義】
『中論』はブッダの縁起の教えを厳密な論証として展開する。あらゆる存在は他との関係においてのみ生じるから、独立した自性を持たない。自性の不在こそが空であり、虚無ではなく事物の真の在りようを指す。冒頭の八不の偈《はっぷのげ》は、生滅・常断・一異・来去という二項対立を一挙に退け、相互依存としての中道を示す。論証技法の要は、相手の前提そのものを採用したまま結論の矛盾を示す帰謬法であり、自らは積極的な命題を立てない点に特徴がある。二諦説は世俗の言語と究極の真理を区別しつつ、両者の往復として智慧と実践を位置づける。
【影響と継承】
中観派はその後、ブッダパーリタとバーヴィヴェーカの解釈対立を経て、チャンドラキールティの帰謬論証学派(プラーサンギカ)とバーヴィヴェーカの自立論証学派(スヴァータントリカ)に分岐した。チベット仏教ではツォンカパがチャンドラキールティを基軸に中観を体系化し、ゲルク派の中核教学とした。中国仏教では鳩摩羅什《くまらじゅう》訳の『中論』『十二門論』『百論』を柱に三論宗《さんろんしゅう》が成立し、天台智顗《てんだいちぎ》の教学にも深く流れ込んだ。日本で「八宗《はっしゅう》の祖師」と称されるのは、中観の論理が広範な宗派の基礎となったからである。現代哲学ではデリダの脱構築との比較研究が進み、トマス・ネーゲルや意味の実在論の議論にも参照されている。
【さらに学ぶために】
三枝充悳《さいぐさみつよし》訳注『中論』が標準的な邦訳で、注釈も親切である。梶山雄一《かじやまゆういち》『空の論理:中観』は空の思想を初学者向けに解きほぐした名著である。立川武蔵《たちかわむさし》『空の思想史』はインドから東アジアへの展開を俯瞰できる。

