
エイブラハム・マズロー
Abraham Maslow
1908年 — 1970年
欲求段階説を提唱した人間性心理学の創始者
この人物について
人間の欲求を五段階のピラミッドで示し、自己実現を心理学の中心テーマに据えた人間性心理学(第三の心理学)の旗手。
【代表的な思想】
■ 欲求段階説
生理的欲求、安全欲求、所属と愛の欲求、承認欲求、自己実現欲求という五段階の階層を提唱した。下位の欲求が満たされるにつれて上位の欲求が立ち現れ、人は生涯をかけて成長を志向するとした。
■ 自己実現と至高体験
精神的に健康で能力を最大限に発揮している「自己実現者」の特徴を研究し、彼らが体験する深い充実感・一体感を「至高体験」と名づけた。病理ではなく健康な人間の心理を研究対象に据えた点が画期的である。
■ 第三の心理学
フロイトの精神分析(病理中心)とスキナーの行動主義(刺激と反応中心)に対する「第三の力」として、人間の成長と可能性を肯定的に捉える人間性心理学を打ち立てた。
【特徴的な点】
フロイトやスキナーが人間の暗い面や機械的な面を強調したのに対し、マズローは肯定的な可能性を前面に出した点で独自の位置を占める。
【現代との接点】
経営学・教育学・マーケティングなど幅広い分野で欲求段階説は参照され、ウェルビーイングやポジティブ心理学の先駆者として評価されている。
さらに深く
【思想の形成】
アブラハム・マズローは1908年、ブルックリンのロシア系ユダヤ移民七人兄弟の長子として生まれた。反ユダヤ主義的な街で孤独な少年期を過ごし、図書館に逃げ込んで知的世界を築いたと自ら語る。ウィスコンシン大学で行動主義の泰斗ハリー・ハーロウに師事し、ヒエラルキー的行動をサル研究で観察したことは、のちの欲求階層論の萌芽となった。1930年代末にブルックリン・カレッジで教え始めると、ニューヨークに亡命してきたウェルトハイマー、ルース・ベネディクト、エーリッヒ・フロム、アドラー、ホーナイらと交流し、個人の成長・文化・歴史を統合的に見る視点を吸収した。この人物たちのうちウェルトハイマーとベネディクトを「自己実現者」の原像として観察したことが、病理モデルからの離脱を決定づけた。
【思想的意義】
1943年の論文「人間の動機づけに関する理論」で提示された欲求階層説は、生理・安全・所属と愛・承認・自己実現という五層のピラミッドとして図式化されたが、マズロー自身は固定的な序列ではなく、動機の比率が状況に応じて変動する動的モデルとして構想していた。晩年には至高体験(ピーク・エクスペリエンス)を軸に、個人の成長を超えて他者や世界に身を捧げる「自己超越」を最上層に置き直している。方法論面でも、平均的被験者ではなく卓越した個体を詳細に研究する特異な経験科学の型を提示し、精神分析の病理中心性と行動主義の反応中心性の双方から距離を取る「第三の心理学」を打ち立てた。
【影響と継承】
欲求階層説は経営学ではダグラス・マグレガーのY理論やハーズバーグの二要因説に継承され、マーケティングでは消費者心理の枠組みとして普及した。教育学では自己実現を目的とする人間主義教育の理論的支柱となり、ロジャーズのクライエント中心療法とともに現代のカウンセリングの基盤をなす。1998年以降のセリグマンらのポジティブ心理学は、マズローを直接の先行者として位置づけている。他方、五段階説の過度に単純化された流布はマズロー本人の意図を損ねた面もあり、近年は自己超越を含む全貌の再読が進んでいる。
【さらに学ぶために】
小口忠彦《こぐちただひこ》訳『人間性の心理学』が主著の定本。上田吉一《うえだよしかず》訳『完全なる人間』は後期の自己超越論が読める。セリグマン『世界でひとつだけの幸せ』と並べると、ポジティブ心理学との関係が見える。






