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入門編 · 19〜20世紀の哲学 · 第37

20世紀の不安と分裂

1914年の夏、ヨーロッパの若者たちは花束を渡されて列車に乗り、数か月で帰ってこられると信じて戦地に向かいました。塹壕ざんごうの泥のなかで彼らが見たのは、毒ガスと機関銃と無意味な突撃とつげきを繰り返す近代戦の現実でした。19世紀が誇った進歩・理性・科学への素朴な信頼は、ここで音を立てて崩れます。生き残って大学に戻った世代と、その教師たちが、この瓦礫のなかから哲学をやり直そうとしました。

危機の世紀:科学万能主義の挫折

19世紀末から20世紀初頭にかけて、自然科学は驚異的な進歩を続けていました。ところが相対性理論と量子力学が古典物理学の前提を揺さぶり、ゲーデルの不完全性定理が数学の完全性という夢を打ち砕きます。それと並行して、世界大戦と全体主義の台頭が、合理的な人間という近代の自画像そのものを疑わせました。

哲学はこの危機に対して、一つの大きな体系を立て直すのではなく、3つの異なる方向に分裂しながら応答していきます。意識の経験そのものに立ち返る道、存在の意味を問い直す道、そして言葉そのものを徹底的に分析する道です。

フッサール:意識へ立ち返れ

数学者から哲学に転じたフッサールは、心理学が心を物のように扱い、自然科学が世界を数式に還元していくなかで、もっと手前の場所に戻ろうとしました。「事象そのものへ」という標語のもとで彼が呼びかけたのは、私たちに現に与えられている経験の構造を、先入観を括弧かっこに入れて記述することでした。

意識はつねに何かについての意識です。コーヒーカップを見るとき、私の意識はそのカップのほうへ向かい、形・色・重さの予期を伴いながらそれを把握している。この志向性しこうせいの分析を出発点に、彼は現象学という新しい学問を打ち立てます。それは後にメルロ=ポンティ、レヴィナス、現代の認知科学にまで影響を伸ばしていきました。

ハイデガーの問い:存在とは何か

フッサールの助手から出発したハイデガーは、師の方向をさらに根本へ押し進めます。古代ギリシャ以来、哲学者たちは「あるとはどういうことか」という問いを忘れて、個々の存在者についてばかり語ってきたのではないか。彼の主著存在と時間は、この忘却された問いへ戻る試みでした。

人間は単なる物としてではなく、自分の存在に関心を持ち、世界のなかに投げ込まれ、未来に向けて自己をくわだてる現存在げんぞんざいとして描かれます。死へと向かう有限性を引き受けたとき、人は世間の喧騒から本来の自分を取り戻す。彼の影響はフランスの実存主義、現代の解釈学、技術論にまで及びます。

あなたが今ここにいるという、ただそれだけの事実を一度立ち止まって眺めてみてください。そこに何か不思議さや問いを感じるでしょうか、それとも当たり前すぎて言葉になりませんか。

ウィトゲンシュタイン:言語論的転回

同じ世代のウィーン出身の哲学者ウィトゲンシュタインは、まったく別の方向から問題に切り込みました。前期の主著論理哲学論考は、世界は事実の総体であり、言語は世界の論理的な像である、と論じます。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という結びの一文は有名です。

後期の彼はこの厳格な構図を自ら解体し、哲学探究では言語を「言語ゲーム」として、生活の実践のなかで意味を持つものと捉え直します。意味は使用にあり、規則は共同体の実践に支えられている。哲学の問題の多くは、言葉が休暇に出ているときに起きるのだ、と彼は書きました。分析哲学はこの言語論的転回をくぐり抜け、20世紀後半の英米哲学の主流を形作っていきます。

現象学・存在論・言語論。これら3つの流れは互いに交わらないまま、それぞれの仕方で20世紀の不安に応えようとしました。第二次大戦という新たな破局はきょくを経た後、哲学はもう一度、社会と政治の場へ降りていくことになります。次章ではその戦後の応答を辿ります。