『あいまいさの倫理のために』
あいまいさのりんりのために
現代
実存的曖昧性を引き受ける倫理をサルトルから独自に展開したボーヴォワール主著
この著作について
シモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir)が1947年に刊行した倫理学の主著(原題『Pour une morale de l'ambiguïté』)。サルトル『存在と無』(1943)が宣言しつつも展開されなかった実存主義倫理学を、ボーヴォワール自身の独創で本格的に構築した代表作である。
【内容】
本書の中心命題は、人間存在の根本にある「曖昧性(ambiguïté)」を否認せず引き受けることから倫理を立ち上げるというものである。人間は肉体をもった物質的自然であると同時に、自己を超越していく自由であり、個人であると同時に他者と共にしかありえない。このいずれか一方に逃避する姿勢——幼児型、ニヒリスト、冒険家、情熱家、美的態度——をボーヴォワールは具体的な人物像として描き出し、それぞれの倫理的限界を分析する。真の自由とは、他者の自由を積極的に欲することによって初めて実現される相互的な営みとして再定義される。ヘーゲル的承認の弁証法を実存主義の土台で書き直し、のちの『第二の性』(1949)における女性の自由の分析、および晩年の老い・死・介護の主題への展開の理論的基盤をここで築いている。
【影響と意義】
本書はサルトル『弁証法的理性批判』、アイリス・マードック『善の至高性』、ジュディス・バトラーのパフォーマティヴィティ論、マーサ・ヌスバウムの能力アプローチ、現代のケア倫理学・傷つきやすさの倫理に直接の影響を残した。長年サルトル哲学の応用作品と誤読されてきたが、近年は独立した倫理的達成として再評価が進んでいる。
【なぜ今読むか】
アイデンティティの固定と流動化のあいだで揺れる現代に、曖昧性を倫理の資源として引き受ける思考の道筋を、もっとも誠実に示してくれる古典である。
さらに深く
【内容のあらまし】
本書は三部と結論からなる。第一部「曖昧さと自由」は、われわれの生涯の不断の仕事は死を築くことだというモンテーニュの一句で始まる。人間は世界を意識する主体でありながら、世界の一部でもある。哲学者の多くはこの曖昧さを覆い隠してきたが、真実はそのつど姿を現す。スターリングラードがあり、ブーヘンヴァルトがあった。どちらも他方を消しはしない。だから真実を正面から見よう、と彼女は呼びかける。
続いて、実存主義は不条理と絶望の哲学だという非難に答える。サルトルが人間を無益な受難と呼んだのは認めつつ、存在をあらわにしようとする関わりに失敗はないと返す。手に入らない雪原を滑るときのように、届かないものへ向かう努力そのものを喜べる。やがて、道徳的であろうと意志することと自由であろうと意志することは同じ一つの決断だ、と示される。絵を描けなくなる将来を静かに受け入れた病のゴッホに、不毛な諦めはなかった。
第二部「個人の自由と他者」は、人間の不幸はまず子どもであったことに由来するというデカルトの言葉から始まる。子どもにとって価値は空や木と同じく与えられたものだが、思春期にその世界が崩れて道徳的な選択の時が来る。そこから、愛も欲望もなく目と耳をふさぐ人間未満の者、無条件とみなした価値に自由を従わせるまじめな人間、何者でもなくなろうとするニヒリストと続く。冒険家は存在そのものを目指す点で倫理に近いが、他人を勘定に入れず暴君に傾く。対象を絶対とする情熱の人、批判や創作に救いを求める知識人も吟味される。まじめな人間は、軍人にとっての軍隊のように役に立つものを偶像に変え、人間そのものを犠牲にする。第二部は、自分を自由として意志することは他人を自由として意志することでもある、という一文に至る。
第三部「曖昧さの積極的な側面」は五つの節に分かれる。フィレンツェの大理石を愛でて現在から身を引く美的態度を退け、自由と解放、行動のアンチノミー、現在と未来へと進む。行動のアンチノミーの節には、家も仕事も手放すことになって泣く若い病人が、ほかは重要でないから治りなさいと言われ、何も重要でないならなぜ治るのかと問い返す。著者は彼女が正しいと言う。最後の節は、曖昧さを不条理と混同してはならないと言い、倫理は科学や芸術と同じく処方を与えず、方法を示せるだけだと述べて、ソ連への非難も擁護も目的と犠牲を突き合わせて具体的に裁くよう求める。結論は、この倫理が個人に絶対の価値を認めるが唯我論ではないと答え、1940年8月に国立図書館でヘーゲルを読んで安らぎを覚えたが、通りに出ると体系は何の役にも立たなかったと回想する。
著者
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