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道

『道徳の基礎について』

どうとくのきそについて

アルトゥール・ショーペンハウアー·近代

同情を道徳の唯一の動機として擁護したショーペンハウアーの倫理学主著

哲学倫理

この著作について

アルトゥール・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)が1840年に刊行した倫理学の主著(原題『Über die Grundlage der Moral』)。1841年の論集『倫理学の二つの根本問題』の後半をなし、デンマーク王立科学アカデミーの懸賞論文として執筆された彼の倫理学の中核的文書である。

【内容】

本書はカントの義務論倫理学の徹底批判から出発する。ショーペンハウアーは、カントの定言命法が実質的には神学的前提に依存した偽装的隠れた神命論であり、義務・法則・当為の語が道徳を外部から強制する発想を温存していると論じる。彼自身の提案する代替案は、道徳の唯一の真の動機を「同情(Mitleid)」に見いだす倫理学である。同情は他者の苦しみを自分の苦しみとして体験する直観的作用であり、このとき主体は自分と他者の区別(個体化の原理)を超え出て、根底的な意志の同一性を経験する。この形而上学的基礎こそ、彼の主著『意志と表象としての世界』における世界理解と倫理を結びつける接合点となる。

【影響と意義】

本書はトルストイ・ニーチェ・ユング・ウィトゲンシュタインら広い範囲の思想家の倫理的直観に影響を与えた。現代においてはケア倫理学・共感論・仏教倫理との対話・神経倫理学における共感研究にも繰り返し参照されている。

【なぜ今読むか】

「義務」や「自己責任」の語で道徳が語られがちな時代に、同情という身体的・直観的経験から倫理を立ち上げる本書の試みは、規範倫理学の別の出発点を示してくれる。

さらに深く

【内容のあらまし】

冒頭には、デンマーク王立科学アカデミーの懸賞課題がラテン語のまま掲げられる。道徳の源泉と基礎は、意識に直接ある道徳性の観念とそこから出る根本概念の解明に求めるべきか、別の認識の原理に求めるべきか、という問いである。本文は4部からなる。

第1部の序論は、問いが形而上学から切り離した基礎づけを求めるので答えは不完全になり、土台もごく小さいと断る。称賛される行為のうち純粋に道徳的な動機から出るのは少数にすぎない。自分を、雄弁な姉たちに比べて控えめな言葉でしか孝心を誓えない『リア王』のコーディリアになぞらえる。

第2部はカント批判である。決して起こらないとしても起こるべきことの法則を立てる出発点を論点先取りと呼び、法や命令や義務の概念は、証明が出るまではモーセの十戒にしか出どころが見当たらないとする。義務は罰か褒美を前提にしてはじめて意味をもつので、無条件の義務は形容矛盾で、至高善の名で幸福主義も裏口から入っている。普遍化の基準も、自分がいつか受け手の側に回る場合を考えさせるため、利己心が判定する仮言命法にすぎない。一方、自由と必然の併存を示す叡智的性格の説は高く評価し、最後にフィヒテをカントの誤りを拡大する虫眼鏡に使う。

第3部が基礎づけである。倫理学の目的は、なすべきことを命じることではなく、現にある行為を説明し源まで遡ることだとする。利己心は、靴に脂を塗りたいだけで人を殺しかねない者もいるほど強く、これが誇張かは疑わしいと添える。動機は三つしかない。自分の幸福を欲する利己心、他人の不幸を欲する悪意、他人の幸福を欲する同情だ。利己心の混じらない行為だけが道徳的価値をもち、それは同情から生まれる。害さないよう引きとどめる同情から正義が、進んで助けさせる同情から人間愛が生まれ、二つの徳は「誰も害するな、むしろできるかぎり皆を助けよ」の前半と後半に当たる。経験による裏づけの最初は、露見の恐れがないのに恋敵の殺害を思いとどまったカイウスとティトゥスの想定である。カイウスの理由は、カント流やフィヒテ流など従来の学説の言い回しを借りて読者に選ばせ、ティトゥスには同情に圧倒されたと語らせる。

第4部は付録で、問いが求めたのは基礎づけだけだと断ったうえで、自分の本質は生きるものすべてにあるという認識を「tat tvam asi(それはお前である)」で言い表す。

巻末の判定文は、応募が1編だけだったのに賞を与えなかった。理由は、形而上学と倫理学のつながりこそ問いの要なのに付録に回したこと、同情が基礎として十分だと示せず本人も認めざるをえなかったこと、近年の高名な哲学者への不穏当な言及である。

著者

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