『正法眼蔵』
しょうぼうげんぞう
道元·中世
日本曹洞宗の開祖・道元による禅仏教の哲学的著作
この著作について
日本曹洞宗の開祖・道元が13世紀半ばに書き継いだ、日本思想史上屈指の哲学的著作。
【内容】
道元自身が編成した七十五巻本に、弟子の懐奘(えじょう)が補った十二巻本、別伝本を合わせて通常95巻と数えられる大著。当時の仏教書が漢文で書かれるのが常識だった時代に、あえて和文で仏法の深奥を綴った点が際立つ。中心テーマは、ひたすら坐ることそれ自体が悟りである「只管打坐(しかんたざ)」、坐禅で身も心も脱ぎ落とされていく「身心脱落(しんじんだつらく)」、そして修行と悟りは二つではなく同じであるという「修証一等(しゅしょういっとう)」の三点に集約される。
【影響と意義】
曹洞宗の根本聖典であると同時に、中国禅を受け継ぎつつ日本語で独自の仏教哲学を築いた古典として、後世に大きな遺産を残した。近代以降は西田幾多郎(にしだきたろう)、和辻哲郎、田辺元ら京都学派が哲学的に読み直し、日本独自の存在論の源泉として位置づけた。20世紀後半には英訳・独訳が進み、東西の哲学対話の中心的素材の一つとなっている。
【なぜ今読むか】
一読しては意味がつかめないほど圧縮された言葉づかいが、読み返すごとに別の層を開いていく。自然や日常の具体物を通して悟りを語る文体は、思想書でありながら詩としても比類ない。ゆっくり味わう読書を取り戻したいときに。
さらに深く
【内容のあらまし】
冒頭に置かれる「現成公案」の巻は、本書全体の入口にあたる。「仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」。修行とは自己を磨いて何かを得ることではなく、自己を忘れることで万物の側から自己が証されることだという、本書の中核をなす逆説がここで提示される。月が水に映っても水は濡らされず月は欠けない、という比喩で悟りと身の関係が語られる。
「弁道話」の巻では、ひたすら坐ることそれ自体が悟りであるという只管打坐の立場が、十八の問答形式で示される。坐禅は悟りに至るための手段ではない。坐っているそのとき、すでに諸仏の悟りがそこに現れている。修行と証はひとつであり前後ではない、という修証一等の主張がこの巻で輪郭を持つ。
中盤の「有時」の巻は、時間と存在を主題にする最も難解な章のひとつである。道元は「有はみな時なり、時はみな有なり」と書く。私たちが過去・現在・未来と並べて捉える時間は、実は今この瞬間の存在そのものであり、薪が燃えて灰になるのではなく、薪は薪の時を生き、灰は灰の時を生きるのだと説く。生死もまた、生から死への移行ではなく、それぞれの時の充実として読み替えられる。
「山水経」では、山が歩き川が経を読むという表現が真剣に展開される。自然はただの背景ではなく、それ自体が仏法を説いている。「青山常運歩」、青い山は常に歩いている、という一節がここに現れる。視点を持つ者の側からはじめて山は静止する、と。
後半の「全機」「画餅」「諸悪莫作」などの巻では、慣用的な禅語が次々と読み替えられていく。たとえば「諸悪莫作」は「悪をなすな」ではなく、悟りに至った者にはそもそも悪が湧かないという事実を述べた言葉として解釈される。最終巻の「八大人覚」は、釈尊の臨終の説法を主題に、修行者が日常で守るべき八つの覚悟を骨子だけ残して結びとする。