全能で、すべてを知っていて、限りなく善い存在がいるとします。
それでも世界には、防げたはずの苦しみがあります。防げないなら全能でなく、知らないならすべてを知らず、防ぐ気がないなら善くありません。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
全能で、すべてを知っていて、限りなく善い存在がいるとします。それでも世界には、防げたはずの苦しみがあります。防げないなら全能でなく、知らないならすべてを知らず、防ぐ気がないなら善くありません。
この三つは、両立しますか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問いを整理した人
エピクロスに帰されることの多い定式ですが、文章として残っている最も古いものは4世紀のラクタンティウスの著作です。広く知られるようにしたのは、18世紀のヒュームでした。
神義論という言葉を作ったのはライプニッツで、1710年の著作でこの問題に正面から取り組みました。
彼の答えは有名です。この世界は、ありうるすべての世界のなかで最善である。
誤解されやすいのですが、これは「すべては良い」という意味ではありません。悪はある。ただし、この悪を含む世界が、他のどの選択肢よりましだという主張です。
ヴォルテールはこれを『カンディード』で徹底的に嘲笑しました。リスボン大地震で数万人が死んでから3年あまり、1759年のことです。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
人の側の限界とする。苦しみには、人には見えない意味がある。信仰の内側でよく語られる答えです。ただし、あらゆる苦しみを説明できてしまうため、反証もできません。
筋道に従う。三つのうちどれかを手放すしかない。論理の帰結を引き受ける立場です。全能を手放す神学もあります。
本人が決める。自由に選べることの代償として、悪が生じている。自由意志による弁護で、アウグスティヌス以来の主流です。ただし地震や病気のような、人の選択と無関係な苦しみは説明できません。
決めない。人の物差しで測れる話ではない。保留ですが、苦しんでいる人には届きにくい答えでもあります。
二種類の悪
議論を進めるには、区別が要ります。
道徳的悪は、人が引き起こすものです。戦争、暴力、裏切り。これは自由意志で説明できます。 選べる存在を作った以上、悪い選択も可能になる。
自然的悪は、そうではありません。地震、疫病、生まれつきの病。誰も選んでいません。
自由意志による弁護は、後者に届きません。だからこの問題の核心は、自然的悪のほうにあります。
答えるより、問いに留まる道
現代の神学には、答えを出さないという立場もあります。
苦しみに意味を与えようとすること自体が、苦しんでいる人を二度傷つけるという指摘です。あなたの苦しみには理由がある、と外から言うことは、慰めにならない。
説明を諦めて、そばにいることを選ぶ。 ヨブ記の読み方をめぐる議論も、この方向を向いています。
いま、この問いが出てくる場所
これは信仰を持つ人だけの問題ではありません。世界には意味があるはずだという感覚は、宗教の外にも広くあります。
理不尽な出来事に遭ったとき、多くの人が「なぜ自分が」と問います。その問いは、神義論と同じ形をしています。
答えが出ないことと、問うことをやめられないこと。この二つが同居しているのが、この問いの特徴です。