全能の存在は、自分にも持ち上げられないほど重い石を作れるでしょうか。
作れないなら、できないことがあります。作れるなら、持ち上げられないことがあります。どちらでも全能ではなくなります。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
全能の存在は、自分にも持ち上げられないほど重い石を作れるでしょうか。作れないなら、できないことがあります。作れるなら、持ち上げられないことがあります。どちらでも全能ではなくなります。
全能ということは、成り立ちますか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
トマス・アクィナスの答え
この形の問いは中世から論じられ、トマス・アクィナスが代表的な答えを出しました。
彼の解決は、全能の定義を絞ることです。全能とは、可能なことなら何でもできるという意味である。
四角い円を作ることは、力が足りないからできないのではありません。四角い円というものが、そもそも何も指していないからです。 言葉としては書けても、中身がない。
石の形の問いをトマス自身が扱ったわけではありませんが、この原則を当てはめれば同じ答えになります。全能者が持ち上げられない石という表現は、言葉の形をしているだけで、何も指していない。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
定義を疑う。全能とは、筋の通ることなら何でもできるという意味だ。トマスの答えです。多くの神学者がこれを採ります。
筋道に従う。この問いは、全能という考えが壊れていることを示している。定義を絞るのは逃げだという立場です。全能なら論理をも超えるべきではないか、と。
人の側の限界とする。理性が届く範囲の外にある。カントに近い筋で、彼は神について理性で論証すること自体に限界を見ました。
言葉の問題とみる。言葉の遊びで、何かを示したことにはならない。問いの立て方が悪いという指摘で、これも有力です。
逃げ道を認めるかどうか
トマスの解決には、代償があります。
全能が論理に縛られるなら、論理は神より上にあることになります。 神が作ったのではない規則に、神が従っている。
これを嫌ったのがデカルトです。彼は、論理法則すら神が定めたものだと考えました。神は四角い円も作れる。人間にそれが理解できないだけだ、と。
どちらを取っても、失うものがあります。 トマスなら神の上に論理を置くことになり、デカルトなら、神についての推論がどこまで信頼できるかが不安定になります。
石の問題ではありません
この問いは、神学の外でも使えます。あらゆる無制限の力に、同じ形の問いが立ちます。
議会は、自分を縛る法律を作れるか。作れないなら万能でなく、作れば以後は縛られます。主権の自己拘束と呼ばれ、憲法学の実際の論点です。
制限を作る力があることと、制限されないことは、両立しません。 全能の逆説が示したのは、この構造です。
いま、この問いが出てくる場所
システムに管理者権限を与えるとき、同じ問題が起きます。管理者は、自分の権限を取り消せるか。
取り消せるなら、そのあと元に戻せません。取り消せないなら、完全な権限ではありません。
言葉遊びに見える問いが、権限設計の実務にそのまま出てきます。