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専門編 · 20世紀の哲学者たち · 第68

フッサール:「事象そのものへ」

1938年4月27日、79歳のフッサールはフライブルクの自宅で息を引き取りました。前年からナチス政権により大学への出入りを禁じられ、ユダヤ人として「公的死亡」の状態にありました。葬儀の参列者は弟子フィンクら数名のみ。彼が残した4万ページの速記そっき遺稿は、数か月後にベルギーの神父しんぷによってドイツから救出されます。本章ではこの哲学者の方法と運命を辿ります。

数学者から現象学者へ

1859年、モラヴィアのユダヤ人家庭に生まれたフッサールは、ベルリン大学でカール・ワイエルシュトラスから数学を学びました。博士号取得後の1884年、ウィーンでブレンターノの講義に出会い、人生が変わります。心理学を「志向性」の研究として再定義しようとするブレンターノの試みに、若い数学者は哲学への道を見出しました。

1900年に出版された論理学研究第一巻は、当時のドイツ大学を支配していた「心理主義しんりしゅぎ」を徹底批判しました。論理法則を心の経験的事実に還元かんげんする立場では、真理の客観性が保てません。1+1=2は誰がいつ考えても2であって、心理学の経験則ではありません。フッサールはここから、論理を支える意識の構造そのものを記述する新しい学を構想します。それが現象学でした。

「事象そのものへ」というスローガン

『論理学研究』第二巻で打ち出されたのが、現象学の根本標語「事象そのものへ(zu den Sachen selbst)」です。哲学は教科書の概念や常識的見解からではなく、事象が意識にどう与えられているかを直接記述するところから始めなければなりません。伝統哲学の前提を一切立てずに作業を始める態度の宣言でした。

中心概念の志向性は、ブレンターノから受け継いだものを精緻化したものです。意識は常に「何ものかについての意識」であり、対象の側ではなく意識作用の構造そのもののなかに、すでに対象との関係が織り込まれている。リンゴを見るとき、見るという作用(ノエシス)と見られるリンゴ(ノエマ)は別々の事物ではなく、一つの構造の二面なのです。

エポケーと本質直観 — 方法の二段構え

1913年のイデーンで導入されたエポケーは、自然的態度のなかで自明視じめいしされている世界の存在定立そんざいていりつを一旦カッコに入れる操作です。世界が外にあるかどうかを否定するのではなく、その問いを停止して、現れの構造そのものを純粋に記述する立場へ移行する。これが現象学的還元です。

もう一つの方法が本質直観です。「赤」とは何かを考えるとき、想像のなかで多様な赤を変奏へんそうし、変えると赤でなくなる限界点を探っていく。経験的帰納とも純粋な概念分析とも違うこの方法は、感覚的個別を出発点としながら本質を取り出す独自の経路として位置づけられます。エポケーが世界の存在を停止し、本質直観がそこから普遍的構造を取り出す。この二段構えが現象学の作業環境を整えました。

生活世界と4万ページの遺稿

1936年に発表された遺稿ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学で、晩年のフッサールは「生活世界」概念を前面に押し出します。近代科学は世界を数学的に理念化することで巨大な力を得たが、その結果として、あらゆる科学的活動の前提である日常的経験の地平ちへいを見えなくしてしまった。物理学が記述する世界は、私たちが住み込んで生きる世界の上に建てられた抽象物にすぎない、と。

フッサールは生涯で4万ページを超える速記原稿を残しました。1938年の死後、ナチスによる焼却しょうきゃくを恐れたベルギーの神父ファン・ブレダがフライブルクに密かに赴き、未亡人みぼうじんマルヴィーネと協力して遺稿を国外へ運び出します。その文書群はルーヴェン・カトリック大学の「フッサール文庫」となり、現在も校訂版こうていばんフッサリアーナとして刊行が続いています。次章では、この師から最も期待され、しかし師を裏切った弟子ハイデガーに進みます。