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自

『自然の解釈に関する思索』

しぜんのかいしゃくにかんするしさく

ドニ・ディドロ·近代

実験科学と動的唯物論を提示するディドロの方法論

哲学認識論

この著作について

ディドロが1753年に刊行した科学方法論の書である。原題は『Pensées sur l'interprétation de la nature』。ベーコンの『ノヴム・オルガヌム』に触発されて書かれ、思弁的な数学的科学に対し、観察と実験に基礎を置く生命科学的・経験的科学の優位を説く。

【内容】

本書は60ほどの断章から成り、自然界の理解は数式の演繹によってではなく、観察と推測の往復運動によって進むと論じる。ディドロは物質に内在する感受性や運動の自発性を認める動的唯物論の方向性を打ち出し、無機物から有機物へ、有機物から動物へという連続的変化を構想する。これは後のラマルクやダーウィンの進化論的発想を先取りするものといえる。

【影響と意義】

機械論的世界像が支配的だった時代に、自然を生きた全体として捉え直す視点を提示した本書は、フランス唯物論の独自性を際立たせる重要な著作である。『百科全書』編纂と並行して書かれ、ディドロの編集者としての方法論とも深く結びついている。

【なぜ今読むか】

生命や生態系を機械の比喩から解放しようとする現代の思想潮流と、本書の動的自然観は強く響き合う。科学的方法の歴史を辿り、その文化的背景を考えるための古典として読まれるべき書物である。

さらに深く

【内容のあらまし】

巻頭には、自然哲学を学ぼうとする若者たちへの献辞がある。若者よ、手に取って読め。教えるより鍛えるのが目的だと断ったうえで、追伸は三つの原則を念押しする。自然は神ではなく、人間は機械ではなく、仮説は事実ではない。これに反することを見つけたなら、私を読み違えているという。ルクレティウス『物の本質について』の一句を掲げたあと、ローマ数字で58番までふられた断章が始まる。

第4節は、百年もしないうちにヨーロッパで大幾何学者は3人も数えられなくなるとほとんど断言する。第9節は、感覚から反省へ、反省から感覚へ戻る往復を、蝋を抱えて巣へ帰る蜜蜂の仕事にたとえる。第12節は、四足獣の体のつくりが似ていることから、すべての動物の原型となる最初の一匹を想像する。手の指をくっつけ、爪がふくらんで全体を包めば、人の手は馬の脚になる。

第15節は、観察が事実を集め、反省がそれを組み合わせ、実験がその結果を確かめると説く。第23節は、目隠しで手探りする実験の哲学と、可能性を量って言い切る理性の哲学を比べる。理性が光は分解できないと言えば、実験は何世紀も黙って聞き、不意にプリズムを差し出す。第30節によれば、実験に慣れきった職人の予感はひらめきに近く、ソクラテスのように取り違えて守護霊と呼びかねない。続く「実例」には、地球の核がガラスなら、両極で露出したその核が磁針の向きやオーロラを生むのではないかといった推測が並ぶ。

第49節は、人間を四足獣とするリンネの論法を皮肉る。第50節は、エアランゲンで出た「バウマン博士」の学位論文を取り上げる。モーペルテュイの偽名だと註にある。物質の最小の粒子にまで欲望や記憶や知性を認めるその説を押し進めると、世界は魂をもつ巨大な動物となり、神でありうることになる。そう示して説を退け、次の節で、死んだ物質にいちばん近い動物の千分の一ほどの鈍い感受性で足りたと代案を出す。

最後の第58節「問い」は15の問いを重ねる。信仰が教えていなければ、種全体も個体のように生まれて衰えるのではないかと疑えるはずだと問い、多くは生きた物質と死んだ物質の違いを問う。人間の営みを見れば世界は古く見えるが、医学や農業の基本さえ定まらないのを見ると、地上に人が住み始めたのは昨日のことのようだという。全集版はこのあとに「祈り」を置く。祈りは、自然から始めた私は地上で神と呼ばれるあなたで終えようと切り出し、「Ô Dieu ! je ne sais si tu es」(おお神よ、私はあなたがいるのかどうか知らない)と続け、それでもあなたが私の魂を見ているかのように考え、あなたの前にいるかのように行うという。

著者

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