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地

『地下室の手記』

ちかしつのしゅき

近代

合理的進歩信仰に反逆する屈折した地下生活者の独白

文学哲学

この著作について

フョードル・ドストエフスキーが1864年に発表した中編小説。『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』など後期長編の思想的準備として書かれ、西洋実存主義文学の嚆矢として位置づけられる作品である。

【内容】

二部構成。第一部は、ペテルブルクの地下の一室に住む40歳の元下級官吏「地下室の男」の哲学的独白。19世紀の水晶宮的な合理主義・進歩信仰・功利計算に対し、「人間は自分の利益に反してでも自由な意志を行使する不合理な存在だ」と激しく論駁する。2×2=4と言われれば「5と言う自由」を主張する倒錯が、強烈な文体で展開される。第二部は語り手の若き日の屈辱的な事件の回想で、娼婦リーザとの出会いと自己卑下の連鎖が描かれる。

【影響と意義】

ニーチェ、カフカ、カミュ、サルトル、そして20世紀の実存主義文学・精神病理学の全てがここから始まった、と言われるほどの影響力を持つ。現代でも「理性的な自己破壊」「屈折した自尊心」の文学的原型として不朽。

【なぜ今読むか】

アルゴリズムによる合理化と最適化が日常を覆う現代、それに抗う「不合理な自由」の古典的例証として一級品。

どの訳で読むか

文庫で読むなら、新潮文庫の江川訳と光文社古典新訳文庫の安岡訳があり、どちらにも電子版がある。ここに挙げた中でいちばん新しい亀山訳は単行本で、題の「手記」が「記録」になっているので、その書名で探すとよい。

  • 江川卓訳新潮社・新潮文庫、1969年

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    1969年に新潮文庫で出た訳で、272ページ。2016年からは電子書籍もある。版元の訳者紹介によれば、江川はロシア語を独学で身につけた人で、『罪と罰』を読み解いた著書で読売文学賞を受けている。

  • 安岡治子訳光文社・光文社古典新訳文庫、2007年

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    296ページで、2013年からは電子版も配信されている。版元の紹介文はこの訳を「決定訳」とうたい、語り手を“俺”と書いている。

  • 亀山郁夫訳集英社、2013年

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    題の「手記」を「記録」と訳し、新訳と冠した書名で出ている。四六判の単行本で272ページ、2015年には電子版が出た。

ほかに、米川正夫訳が青空文庫で無料で読める(題は「地下生活者の手記」)。底本は河出書房新社のドストエーフスキイ全集第5巻(1970年)である。

さらに深く

【内容のあらまし】

題に付いた作者の注は、手記もその書き手も作り事だが、こういう人間は今の社会にいるはずだと断る。第一部「地下室」は11章、第二部は10章からなる。

第一部は「Я человек больной… Я злой человек.」(私は病んだ人間だ。私は意地の悪い人間だ)と始まる。肝臓が悪いのに、意地を張って医者にかからない。年は40、遠い親戚が遺した6000ルーブリを機に役所を辞め、ペテルブルクの外れの部屋にこもっている。彼は意識しすぎることを病気だと言い、侮辱されると穴へ逃げこんで地下で冷たい恨みにふける鼠の姿を描く。自然法則や数学という石の壁を頭突きで壊せなくても、壁だからといって和解はしない。1か月歯痛に苦しんだ経験から、歯痛のうめき声にさえ快楽があるとまで言う。

第7章からは標的がはっきりする。人は本当の利益を知れば善をなすという説に対し、どの利益の一覧からも抜け落ちたいちばん有利な利益、つまり気まぐれでもかまわない自分の意志による選択を持ち出す。人間の行為が対数表のように計算され、人がピアノの鍵盤になる世に水晶宮が建つ、というのが相手の理屈だ。第9章は、2×2=4は生ではなく死の始まりだと言い、2×2=5もときには愛らしいと付け加える。第一部の最終章は、地下室ばんざいと叫んだすぐあとで、それも嘘だと打ち消す。今日降っている黄色く濁ったぼた雪が、ある出来事を思い出させたと言って、筆は第二部へ移る。

第二部は24歳のころに戻る。居酒屋の玉突き台のそばで、彼は将校に黙って肩をつかまれ、別の場所へどかされる。蠅のように扱われた恨みは何年も続いた。給料を前借りして黒い手袋と帽子を買い、外套のアライグマの襟をビーバーに替え、ネフスキー大通りで道を譲らずにぶつかる日を待ち、何度もよけたすえ、目をつぶって肩をぶつけ、帰ってイタリアのアリアを歌う。

次は同窓生の送別会だ。シーモノフの部屋で、遠い任地へ発つ将校ズヴェルコフを送る会の相談を聞き、頼まれもせず加わる。5時の集合は6時に変わり、知らされなかった。宴では乾杯の辞で喧嘩を売り、決闘を挑んで笑われ、あとは無視されて、8時から11時まで、テーブルとストーブのあいだを靴音を立てて往復する。一行が娼家へ流れると、シーモノフから6ルーブリを借り、平手打ちを食らわせるつもりで橇で追う。そこで会うのが20歳のリーザだ。朝、役所へ急ぐ途中で見た、地下から運び出されて落ちかけた棺の話から、水のたまる墓穴、娼婦の行く末を語って聞かせ、住所を渡して帰る。やがて彼女は本当に訪ねてくる。そのとき彼は、給金を払わずにいた下男アポロンと揉めている最中だった。

著者

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