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溺れる子ども:目の前と遠くで、なぜ扱いが違うのですか

服が汚れても池の子は助ける。同じだけの負担で遠くの子が1人助かるとしても、多くの人は動かない。

目の前の池で子どもが溺れていれば、服が汚れても助けるはずです。

服を1着だめにするのと同じだけの負担で、遠くの国の子どもが1人助かるとします。かかる負担も、助かる数も同じです。

まずは選んでみてください。

まず、選んでみる

目の前の池で子どもが溺れていれば、服が汚れても助けるはずです。服を1着だめにするのと同じだけの負担で、遠くの国の子どもが1人助かるとします。かかる負担も、助かる数も同じです。

この2つは、同じことですか。

正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。

この問いを作った人

ピーター・シンガーが1972年に書きました。彼はこう論じます。

簡単に防げる悪いことがあり、防ぐために大きな犠牲を払う必要がないなら、防ぐべきだ。 この原則を認めるなら、池の子を助けるのと、寄付で遠くの子を助けるのは、同じことになる。

距離は関係ありません。顔が見えるかどうかも、道徳的な差にはならないはずです。

この議論は、のちに効果的利他主義と呼ばれる運動の土台になりました。どの寄付先が最も多くの命を救えるかを、証拠で比べて選ぶ。運動として形になるのは2000年代後半からで、収入の一定割合を寄付する誓約は、その具体的な実践の一つです。

4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている

数で決める。助かる数が同じなら、遠い近いは関係ない。シンガーの立場で、ベンサム以来の功利主義の系譜にあります。誰の苦しみも同じ1として数える。

近い人を先にする。手の届く範囲にいる人を先にするのは、おかしなことではない。孟子が説いたのは、まさにこの順序でした。親から始めて、次第に他へ及ぼしていく。順序があることを、彼は徳の欠陥ではなく形と考えました。

手を下さない。自分が引き起こしたわけではないことまで、責任は及ばない。助けないことと、害することは違うという区別です。

決めない。寄付が本当に届くかは、確かめようがない。実務的な留保で、これは軽い言い訳とも、真剣な問題提起とも読めます。

シンガーの議論の強さと、その代償

この議論が厄介なのは、前提が受け入れやすく、結論が受け入れにくいことです。

池の子を助けるべきだという点に、誰も反対しません。距離が道徳的な差を作らないという点も、言われてみればそのとおりです。それなのに結論は、収入の相当部分を寄付し続けるべきだ、というものになります。

前提を認めて結論を拒むには、どこかで区別を立てなければなりません。そしてその区別を、うまく言葉にできない。 それがこの議論の力です。

孟子との対比が効きます

孟子は井戸に落ちそうな子を見た人の話をしました。理由を考える前に、はっと胸が動く。 そこに人の本性を見ました。

シンガーは、その手が届く範囲を広げようとします。孟子は、その広がり方に順序があることを認めます。

どちらも「見たら助ける」から出発して、片方は距離を消し、片方は距離を残す。2300年離れた二つの議論が、同じ場所から反対を向いています。

いま、この問いが出てくる場所

災害の報道で、遠い国より近い国の被害に反応が大きくなることは、繰り返し起きます。

シンガーの議論はそれを非難しますが、非難だけでは人は動きません。 むしろ有効なのは、遠さを縮める工夫です。名前が分かる、写真が見える、届いた報告が返ってくる。

距離が道徳的に無意味でも、心理的には決定的です。 その差をどう扱うかが、この問いの実務的な部分になります。

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