子どもが井戸に落ちそうになっているのを見たとします。助けても、親から礼をもらえるわけでも、評判が上がるわけでもありません。 むしろ自分が危険です。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
子どもが井戸に落ちそうになっているのを見たとします。助けても、親から礼をもらえるわけでも、評判が上がるわけでもありません。むしろ自分が危険です。
それでも、手が出ますか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問いを作った人
紀元前4世紀の孟子です。彼はこの例で、性善説を論証しようとしました。
論の運びが巧みです。孟子はまず、条件を一つずつ潰します。子どもの親と親しくなりたいからではない。 近所の人に褒められたいからでもない。助けなかったと非難されるのが嫌だからでもない。
すべての利益を取り除いても、それでもはっと胸が動く。 そこに、人が生まれつき持つものがある。
彼はこれを惻隠の心と呼び、そこから育つものが仁だと考えました。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
人柄で決まる。理由を考える前に、体が動く。孟子の答えです。徳とは、この芽を育てたものだと彼は考えました。
立場で決める。助けられる立場にいる者が助けるべきだ。役割から導く答えで、これはこれで筋が通ります。ただし孟子の言いたかった「考える前に」からは離れます。
自分の得で決める。危険や損得を考えれば、動けない人がいて当然だ。荀子の性悪説に近い立場です。彼は、人が善くなるのは学びと礼によるのであって、生まれつきではないと論じました。
決めない。その場に立ってみないと分からない。正直な答えで、人が多いほど一人ひとりが動きにくくなるという傍観者効果の実験が示したのは、まさにこれでした。
孟子と荀子の対立
同じ儒家のなかで、この二人は正反対の出発点に立ちました。
孟子は、善の芽が最初からあると考えます。 教育とは、それを枯らさず育てることです。
荀子は、人は放っておけば欲に流れると考えます。 教育とは、外から形を与えて矯めることです。
面白いのは、二人とも同じ結論に向かっていることです。どちらも人は善くなれると考え、そのために学びが要ると説きました。違うのは、出発点をどこに置くかだけです。
シンガーの議論と、正面から重なります
この記事の対になるのが、シンガーの溺れる子どもです。
どちらも、目の前で子どもが死にかけている場面から始まります。 そしてどちらも、そこで動く心を出発点にします。
違うのは、その先です。シンガーは、動く心を義務の根拠にします。 助けられるのに助けないのは悪い。だから議論は「いくら出すべきか」に着きます。
孟子は、動く心を根拠にしません。 動いたのは芽であって、まだ徳ではない。だから議論は「どう育てるか」に着きます。孟子からは寄付額が出てきません。出てくるのは修養の話です。
同じ場面から出発して、片方は義務の量を問い、片方は人の育ち方を問う。 井戸の縁で胸が動いたところまでは、二人とも同じでした。
いま、この問いが出てくる場所
孟子の議論が今も生きているのは、理屈より前に動くものがあるという指摘のためです。
近年の研究でも、1歳台の幼児が、困っている相手を手助けする行動が観察されています。孟子の見立ては、部分的には裏付けられました。
ただし傍観者効果が示したように、その芽は状況しだいで抑え込まれます。 危険がはっきりした場面では効果が弱まることも分かっています。芽があることと、それが伸びることは、別のことでした。