入門編 · もう一つの声 · 第46章
日本仏教:空海・道元・親鸞
平安京の喧騒を遠く離れた紀伊山地、霧の濃い高野の峯に、一人の僧が金剛峯寺の地を切り拓いていました。彼の名は空海。唐に渡って密教の正統を受け継ぎ、帰国後は宗教者であると同時に書家、土木技術者、教育者として八面六臂に活動した稀有の人物です。日本仏教は彼によって独自の哲学的厚みを持ち始めました。
空海と真言密教の世界観
空海が日本に持ち帰った真言密教は、それまでの顕教とは異なる徹底した一元論的世界観を備えていました。宇宙の根本仏である大日如来は、世界そのものとして自らを現している。山も川も人も虫も、すべてが大日如来の身体の一部であり、あらゆる現象が説法でありえる、という発想です。
そしてその大日如来の本質は、私たちの内側にも宿っている。即身成仏、すなわちこの身このまま仏になれる、という大胆な命題は、修行を通じて遠い来世に救いを期待する従来の仏教観を根底から覆しました。曼荼羅、印契、真言。身体と感覚を総動員して仏と共鳴する空海の思想は、日本人の精神性の地層に深く刻まれていきます。
道元の只管打坐と有時
時代は下って鎌倉。宋に渡って曹洞禅の法を受け継いだ道元は、越前の山中に永平寺を開きます。彼が説いたのは只管打坐、ただひたすら坐ることでした。坐禅は悟りへの手段ではありません。坐ること自体がすでに仏のあらわれであり、修行と証悟はもとより一体である、と。
その思想を凝縮した『正法眼蔵』のなかで道元が展開した有時の思想は、二十世紀に再発見されました。存在は時間であり、時間は存在です。山も時、海も時、私も時。ハイデガーの存在と時間のおよそ七百年前に、道元はすでに同じ問題圏に踏み込んでいた、と現代の比較哲学者は驚きをもって指摘します。
善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。あなたが自分を善人だと思うとき、本当に救いから遠ざかっているのは誰でしょうか。
親鸞の他力本願と悪人正機
同じ鎌倉時代、流罪の身で越後に流された親鸞は、肉食妻帯し、自らを愚禿と名乗りながら民衆の只中で念仏を説きました。彼の浄土教思想の核心は、自分の力で救われようとする計らいを根本から手放し、阿弥陀仏の本願の力に身を委ねることにあります。
弟子唯円が親鸞の言葉を綴った『歎異抄』には、悪人正機の有名な一節が刻まれています。善人ですら往生できるのだから、ましてや自らの罪深さに苦しむ悪人こそ救いの対象なのだ、という逆説。自力の修行に挫折した人間にこそ他力の救いが届く、というこの透徹した洞察は、近代以降のキリスト教神学者にも衝撃を与えました。
日本仏教の哲学的遺産
空海の即身成仏、道元の修証一等、親鸞の絶対他力。三人の思想は方向こそ違うものの、共通する一つの直観を分かち持っています。聖と俗、彼岸と此岸、悟りと迷い、これらの二元的な区分を最終的に解体し、いま・ここに溶け込ませてしまうという独特の感性です。
この感性はやがて禅を通して茶道、武道、芸術、職人の哲学へと浸透し、二十世紀には鈴木大拙によって世界に紹介され、ハイデガーや精神分析家ユングを刺激しました。次章では、こうした仏教的素地のうえで、日本がいかにして西洋哲学と出会い、独自の近代思想を編み出していったかを辿ります。
もう一つの声 · 第46章