専門編 · 古代・中世の深層 · 第54章
古代懐疑主義の系譜
紀元前4世紀末、若い哲学者ピュロンはアレクサンドロス大王の東征に随行してインドに渡り、裸形の行者たちと出会います。帰国後の彼は崖の縁でも犬の突進にも表情を変えず、弟子たちに慌てて引き戻されたと伝えられます。古代懐疑主義はこの逸話のように、知識の不確かさそのものを生きることで心の平静を得ようとした特異な運動です。
ピュロンとインドの行者たち
紀元前334年から323年まで続いたアレクサンドロスの東征に、若いピュロンは哲学者として同行しました。ペルシアからインダス川流域までを行軍した彼は、現地で出会った裸形のグナノソフィスト(裸の賢者)たちの様子に強く打たれます。彼らは戦争にも富にも動じず、外界を一切評価しないことで内なる安寧を保っていた。エリスに帰ったピュロンは、この東方的な無関心の哲学を、ギリシア哲学の語彙で組み直す作業に取りかかります。
ピュロン自身は一行の文字も残しませんでした。教説は弟子ティモンの詩篇と、後世セクストス・エンペイリコスの体系化を通じて伝わります。ティモンが要約したピュロンの三つの問いはこうです。事物はそれ自体としていかなるものか。それに対して我々はどう振る舞うべきか。そこから何が得られるか。答えはそれぞれ「決定不可能」「判断を停めよ」「無言と心の平静(アタラクシア)」でした。
エポケーと十の様式
ピュロン主義の中核がエポケー、すなわち判断保留です。ある命題に対して同じくらい強い反対命題を立てうると示せば、私たちは賛成も反対もできなくなります。これは消極的な無関心ではなく、対立する諸見解を等しい重みで秤にかけ続ける積極的な操作でした。アイネシデモスが整理した「十の様式」は、この秤にかけるための具体的な反対例集です。
たとえば、同じ蜂蜜が健康な者には甘く、黄疸患者には苦く感じられます。同じ風が動いている人には寒く、安静にしている人には暖かい。同じ慣習が自国では美徳とされ、隣国では悪徳とされる。十の様式は感官の差異・個体差・状況の違い・文化の差異といった日常的観察を哲学的論証に組み替えます。なぜ判断を保留せねばならないかが、抽象論ではなく具体例の積み重ねで示されたのです。
新アカデメイアの分岐 — 蓋然性で生きる
プラトン没後のアカデメイアは、3代目アルケシラオス以降、独自の懐疑的傾向を強めて新アカデメイアと呼ばれるようになります。彼らはストア派の独断論と激しく論戦し、確実な真理は得られないと結論しました。しかしカルネアデスはここから一歩踏み込みます。完全な確実性は得られないとしても、行為のためには「より蓋然的(ピタノン)な見解」に従えばよい、と。
紀元前156年、カルネアデスはローマに使節として赴き、ある日に正義を擁護する演説を、翌日には正義を攻撃する演説を行いました。同じ問題について両方の弁論が成立するなら、一方に賭ける根拠はない、というのが彼の論点です。元老院は彼を即刻追放しました。穏健派の懐疑主義は、生活上の実用的判断を奪わずに認識論的謙虚さを保つ立場として、後の確率論的認識論の遠い祖先となります。
モンテーニュからウィトゲンシュタインまで
1562年、フランスの印刷業者アンリ・エチエンヌがセクストス・エンペイリコスのギリシャ語テキストをラテン訳で出版すると、古代懐疑主義は突如として近代思想の母胎となります。ペリゴール地方の城に隠棲したミシェル・ド・モンテーニュは、自宅塔の梁にギリシア語の問い「Que sais-je?(私は何を知るか)」を刻みつけ、『エセー』を「人間の感覚と理性の脆さ」を列挙する書物として書き続けました。
デカルトは『省察』で全感覚を疑う方法的懐疑から始めますが、その目的はピュロン派とは正反対で、疑いえない一点を探すためでした。彼の「我思う」は、懐疑主義の手法を借りつつそれを反駁するための足場でした。20世紀になるとウィトゲンシュタインが、私たちが日常で「知っている」と語るとき何を保証しているのかを再び問い直します。次章では、こうした懐疑の風雨を浴びてもなお実在を立てたプラトンの哲学を、その射程の側から読み直します。
古代・中世の深層 · 第54章