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声

『声と現象』

こえとげんしょう

現代

フッサール現象学を内部から脱構築したデリダ初期三部作の一つ

哲学

この著作について

ジャック・デリダが1967年に同時公刊した初期三部作『声と現象』『グラマトロジーについて』『エクリチュールと差異』の一つ。エトムント・フッサールの『論理学研究』を題材に、西洋形而上学を貫く「声の特権(音声中心主義)」を脱構築した代表作である。

【内容】

西洋形而上学は声を、発話主体が自分自身の話す声を同時に聴くという「自己への現前」の最たる例とみなし、書き言葉・記号・差延に対して根源的特権を与えてきた。デリダはフッサールの記号論を内部から読み返し、意味は実は「独白的な声の自己同時性」によって支えられているのではなく、常にすでに反復可能性と差異によって分節されていると論証する。「差延(différance)」概念がここで初めて明確に提示される。

【影響と意義】

リクール、フーコー、ラカンらと並ぶ1960年代後半のフランス思想の頂点を示し、以後の脱構築運動の出発点となった。文学理論、法哲学、翻訳論、ポストコロニアル研究など人文諸学に広範な影響を与えている。

【なぜ今読むか】

音声AIと生成AIが「声」を再び特権化する現代、声の根源性を問い直すデリダの批判はむしろ新鮮な切れ味を見せる。

どの訳で読むか

文庫で読むなら、2005年にちくま学芸文庫に入った林訳になる。原書の副題をそのまま添えた題で出た旧訳を読むなら、1970年の理想社の高橋訳がある。

  • 林好雄訳筑摩書房・ちくま学芸文庫、2005年

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    文庫判で336頁、2005年6月8日の刊行。版元の紹介は、フッサール『論理学研究』の「表現と意味」の綿密な読解を通して、現象学的批判という方法が「形而上学的企てそのもの」だと暴く本だとする。目次は7つの章で、「記号、いくつかの記号」「指標の還元」「独語としての意-味」「意-味と表象=代理」「記号と瞬き」「沈黙を守る声」「根源の代補」。あらましの章の番号は、この7章立ての数え方による。

  • 高橋允昭訳理想社、1970年

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    題は『声と現象』に、原書の副題にあたる「フッサール現象学における記号の問題への序論」を添えた形で、CiNii Booksの記録では1970年12月の刊行になっている。2005年の林訳より35年早く出た訳である。

さらに深く

【内容のあらまし】

本書は冒頭に三つの引用を掲げる。誰が書いたのか知らずに「私」という語を読めば、意味がないとは言えないかもしれないが、少なくとも普段の意味から疎遠になるという『論理学研究』の一文。ある名を聞いてドレスデンの美術館を思い出し、画廊を描いたテニールスの絵の前で足を止め、その画廊の絵がまた絵を描いているとしたら、と続く『イデーン』の一節。ヴァルドマール氏が問いに答えて「I am dead(私は死んでいる)」と告げる、ポーの短篇の一場面である。

第1章は、記号という語が表現と指標という異質な二つの概念を覆っているとフッサールが指摘するところから始まる。第2章は、指標の例として火星の運河やチョークの印を挙げる。

第2章の終わりで、現実の対話では表現が指標に汚されるとして、フッサールは他人を締め出した孤独な心の生活に純粋な表現を探す。第4章はその独り言を取り上げる。自分の振る舞いは悪かったと自らに言い聞かせる例では、何も伝えておらず、伝えていると思い描くだけだという。心の作用はその同じ瞬間に体験されているので、知らせる必要がないからである。デリダはここに問いを差し込む。ただ一度しか起こらない記号は記号ではない。記号が根本から反復の構造をもつなら、実際の発話と思い描かれた発話の区別は怪しくなる。

第5章は、その瞬間にあたるドイツ語が文字どおりには目のまばたきを意味することに目を留める。今は、過ぎ去った直後を折り込む働きと切り離せず、その真ん中にすでに差異を抱えている。まばたきにも長さがあり、そのあいだ目は閉じるのだ。第6章は、声に特権を与える現象学の見方を取り上げ、その超越は見かけにすぎないと示そうとする。自分が話すのを聞くことは外への回り道を経ない独特の自己触発とされ、声なしにはいかなる意識もありえない。だが純粋な内面というこの主題は、時間そのものによって根本から否定されるという。

最終章は、代補とは実は差延、つまり現前を割り、遅らせる働きだと述べて始まる。窓のそばにいる人を実際に見ながら「私は窓のそばにいる人を見ている」と言う場面で、この文は聞き手が時間的にも空間的にも無限に隔たっていても理解されるはずだ。「私は生きている」という言明には私が死んでいることが伴い、これはポーの並はずれた物語ではなく、言語のごく普通の物語だという。差延なき声は、絶対的に生きていると同時に絶対的に死んでいる。議論は最後にドレスデンの画廊へ戻り、それを自らのうちに出口を含む迷宮と呼び、現象学が信じさせようとしてきたのとは逆に、物そのものはつねに逃れ去ると言い切る。

著者

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