フィロソフィーマップ
万

『万葉考』

まんようこう

近代

『万葉集』を古道の精神に立ち返って読み解いた国学者賀茂真淵の大著

文学日本

この著作について

江戸中期の国学者・賀茂真淵が1768年に公刊した『万葉集』の注釈書。荻生徂徠《おぎゅうそらい》の古文辞学の方法を『万葉集』に適用し、平安以降の歌道伝統を離れて古代日本の精神を直接捉え直そうとした、国学思想の記念碑的著作である。

【内容】

第一に『万葉集』を「ますらをぶり」すなわち男らしく雄健な古道の精神の表現として再評価する。平安和歌に見る「たをやめぶり(女々しい風)」を、中国思想と仏教の汚染による日本精神の退廃と診断し、真の日本の心は『万葉集』に純粋な形で保存されていると説く。真淵の独自の読み解きは語釈・字音・枕詞解釈など多岐にわたり、門人・本居宣長《もとおりのりなが》を通じて『古事記伝』へと結実していく。

【影響と意義】

本居宣長・平田篤胤ら後の国学者に決定的影響を与え、明治以降の国粋思想・皇国史観の遠い源流としても位置づけられる。同時に、近代短歌における「万葉調」の再発見、近代国学研究の土台を提供した。

【なぜ今読むか】

自国の古典をどう読み直すかという問いは時代を超えて更新され続けており、その最も鋭利な一つの範例を示すテクスト。

さらに深く

【内容のあらまし】

全20巻のうち真淵が自ら注を書いたのは巻1から巻6までで、流布本の巻1、2、13、11、12、14をこの順に並べ直したものにあたる。詳しい考証は別記6巻に回され、巻7以下は真淵の没後に狛諸成《こまのもろなり》らが草稿をもとにまとめた。刊行は巻1・2が明和6年(1769)、全巻の完結が天保6年(1835)である。

巻頭の総論「万葉集大考」は、『古事記』『日本書紀』に二百ほど、『万葉集』に四千あまり残る古い歌こそ昔の人の心と言葉だと説き起こす。真淵は、若いころ『万葉集』をただの古い歌と思って『古今和歌集』や物語の注釈に打ち込んだが、いま見ればそれらは時代が下った女性的な姿で、ただ万葉こそと思い定めて、六十の齢でこの注を書き記したと語る。そして「いにしへの世の哥は人の眞ごゝろ也、後のよのうたは人のしわざ也」(昔の歌は人のまごころ、後の世の歌は人の技)と言い切る。上代は雄々しさを重んじたのに、中ごろ外国の細かな政治を取り入れて文を貴び武を賤しんだために道が衰え、矢を負いながら弱い歌をうたうようになったと嘆く。

歌風は五度移り変わると説く。舒明天皇の高市岡本宮のころは冬が明けて雪や氷が解けるようで、藤原宮では大海原に趣のある島々が浮かぶような勢いが出る。奈良の宮の初めはそれをまねて狭くなり、中ごろには風の強い日に海山を見るような荒々しい姿になる。五度目は『万葉集』に入らない『古今和歌集』のよみ人しらずの古い調べで、荒々しさが裏返ってひたすら女に似た姿になるという。歌人評では、柿本人麻呂の長歌を雲や風に乗って空を行く竜にたとえ、山部赤人を人麻呂と表裏の関係に置き、大伴家持は出来事をよく記すが香りがないと評する。

書名については荷田春満《かだのあずままろ》の説に従い、万は数の多さ、葉は言葉すなわち歌をいうとする。今は20巻あるが本来の万葉集は先の6巻で、橘諸兄《たちばなのもろえ》が上代から奈良の宮の初めまでの歌を選んだものであり、巻7以下は家々の歌集だと論じる。題詞は字音でなく日本の言葉で読み、挽歌は「かなしみのうた」とする。もとは草書で、仙覚らが楷書にしたのだろうと見て、疑わしい字は草書に戻して誤りをたどり、家の一字が夕と和の二字に誤られた例を挙げる。枕詞と語の解き方は別の書に譲り、先人として契沖《けいちゅう》と荷田春満の名を挙げ、宝暦10年10月に真淵が署名して結ぶ。

本文では、万葉仮名の原文を句ごとに区切って注を加える。舒明天皇の香具山の国見歌では、大和から海は見えないが眺めの気分で詠んだとする説を退け、古い歌に空言はないとして、海原を広い埴安池《はにやすのいけ》と読む。

著者

関連する哲学者と話してみる

Amazonで見る