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精

『精神の生活』

せいしんのせいかつ

現代

思考・意志・判断の三分法で精神活動を論じたアーレント未完の遺作

哲学政治

この著作について

ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)が晩年に構想し、1978年に没後刊行された未完の主著(原題『The Life of the Mind』)。全三巻「思考(Thinking)」「意志(Willing)」「判断(Judging)」からなる構想のうち、第一巻・第二巻が完成し、第三巻は冒頭のメモのみで中断された。遺稿整理はメアリー・マッカーシーが担当した。

【内容】

本書はアーレントが1961年のアイヒマン裁判傍聴で直面した「悪の陳腐さ(banality of evil)」の衝撃から出発する。アイヒマンに欠如していたのは深い悪意ではなく、自分の行為と言葉について思考する能力そのものであった。この観察から、彼女は精神の三つの基本活動——思考・意志・判断——をそれぞれ独立した主題として哲学史的に分析する。思考編では、プラトン・カント・ハイデガーを通じて、思考が結論を出さない対話的活動であることが示される。意志編では、アウグスティヌス・スコトゥス・ハイデガーを通じて、意志が未来への新しい開始を可能にする能力として捉え直される。判断編は未完だが、カント『判断力批判』を規範的政治判断の理論的基盤として読む計画であったことが残されたメモから読み取れる。

【影響と意義】

本書はアーレントの『人間の条件』『過去と未来の間』と並ぶ主要著作として、現代政治哲学における判断論・道徳心理学・公共哲学に広範な影響を残した。ジェローム・コーン編集の講義録『カント政治哲学講義』と合わせて読まれることが多く、セイラ・ベンハビブ、バーバラ・スミス、リチャード・バーンスタインら後続研究者の基本参照点となっている。

【なぜ今読むか】

生成AIと自動化が思考を代行する時代に、「思考しない人間」の政治的帰結を最も深く分析した思想家の遺言的テクストとして、本書は静かに重い。

さらに深く

【内容のあらまし】

本書は二つのエピグラフで始まる。その一つは『人間の条件』の結びにも引いた大カトーの言葉で、何もしていないときほど活動的なことはなく、独りでいるときほど孤独でないことはない、という。

第1巻「思考」の第1章「現れ」は、私たちがどこでもない所から現れ、どこでもない所へ消えていくこの世界では、存在することと現れることが一致すると説く。見る者を前提としないものは何ひとつなく、複数性こそ地上の掟だ。続く節は真の存在と単なる現れを分ける二世界説を取り上げ、第3節は「形而上学の序列の逆転」と題して、スイスの生物学者ポルトマンを手がかりに表面の価値を論じる。章の最後の節はカントによる知性と理性の区別を取り上げ、理性の欲求は真理ではなく意味の探求から来ると述べる。第2章は、精神の活動が目に見えず現れの世界から身を引くことから始め、言語と比喩を論じる。

第3章「何がわれわれに思考させるのか」は、プラトンの答え、ローマの答えを経てソクラテスに至る。続く節「一者のなかの二者」は『ゴルギアス』から、大勢と意見が合わないほうが、一人である自分が自分と調和を欠くよりましだという言葉を引く。外の世界から名を呼ばれると、思考のなかで二人に分かれていた自分はまた一人に戻る。第4章は、ヴァレリーの言葉を題にした節で、思考の居場所を「どこでもない所」と呼ぶ。過去と未来に挟まれて戦う人間の現在は、二つの力が斜めにぶつかる力の平行四辺形として描かれ、その対角線が思考の姿になる。

第2巻「意志」は冒頭で、意志を意識の錯覚と退け、その存在を否定する哲学者たちの議論は、思考する自我と意志する自我の経験の衝突から来ているのではないかと疑う。第2章は、意志の無力に突き当たるパウロ、意志の全能を説くエピクテトスを経てアウグスティヌスに至る。アウグスティヌスは天地の創造と人間の創造に別の語を当て、人間を新しい始まりとして創られたものと考えた。第3章はトマス・アクィナスの知性の優位とドゥンス・スコトゥスの意志の優位を対比し、最終章はニーチェとハイデガーを経て「自由の深淵と新しい時代の秩序」の節に至る。西洋の伝統は、新しいものを古いものの改良版と見なすことで、この自由の深淵を覆ってきたという。

第3巻「判断」は、タイプライターに残された最初の1枚だけに終わった。そこに打たれたエピグラフの最初の一つは、第1巻の結びにも掲げたルカヌスの「Victrix causa diis placuit sed victa Catoni」(勝った側は神々を喜ばせたが、敗れた側はカトーを喜ばせた)で、このカトーは小カトーである。

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