「苦しみを通してしか、本当に愛することはできない」
ドストエフスキー近代
ドストエフスキーの短編「おかしな人間の夢」で、主人公が地上の愛は苦しみと切り離せないと語る一節。
この言葉について
本当に誰かを愛するとき、苦しみは愛の外にあるのではなく、愛の通り道になっているという洞察。
【背景】
ドストエフスキーの短編「おかしな人間の夢」に出てくる言葉。語り手の男が、この新しい星にも苦しみはあるのかと問いながら、地上の愛について語る一節である。
【解釈】
男はこの言葉に続けて、私たちはほかの愛し方を知らず、ほかの愛を知らないと言う。ここでの苦しみは愛の妨げではなく、地上の人間が愛するときの条件として語られている。
【現代への示唆】
快適さだけを求める関係ではなく、困難を共に引き受けることで愛が深まるという、愛の本質的な側面を考えさせる。
さらに深く
【出典】
1877年、ドストエフスキーが自分で出していた月刊の個人雑誌「作家の日記」に載った短編「おかしな人間の夢」の一節である。世界に価値は無いと考えて自殺を決めた男が、夢の中で地球そっくりの星へ運ばれ、捨ててきた地球への思いを胸の内でこう語る。原文は На нашей земле мы истинно можем любить лишь с мучением и только через мучение!(ナ・ナーシェイ・ゼムリェー・ムィ・イースチンナ・モージェム・リュビーチ・リシ・ス・ムーチェニエム・イ・トーリカ・チェーレス・ムーチェニエ)で、私たちの地上では、苦しみとともに、苦しみを通してしか本当に愛することはできない、という意味だ。男は、愛するために苦しみがほしい、とも言う。
【よくある誤解】
愛することは苦しむことを学ぶことだ、という形の文は、ドストエフスキーの作品には確認できない。また、この考えを『カラマーゾフの兄弟』の長老ゾシマ(修道院の庵に住み、主人公アリョーシャが深く心を寄せる人物)の言葉と結びつけたくなるが、ゾシマの言葉にこの文はなく、語られる向きも違う。ゾシマが語るのは、地獄とは何かと問い、それはもはや愛することができないという苦しみだと答える一節である(第6編第3章)。苦しむことが愛なのではなく、愛せなくなることこそが苦しみだという順序になっている。またゾシマは、病人に感謝されなければ人類への愛を保てないと打ち明ける婦人に、実行する愛は夢見る愛に比べて過酷で恐ろしいものだと語る(第2編第4章)。夢見る愛は人前ですぐに事を成し遂げたがるが、実行する愛は労働であり忍耐だという。重心は苦しみそのものより、報われなさに耐えて愛し続けることにある。
【この言葉のその後】
この一節の後、苦しみと愛の関係はさらに込み入っていく。夢の星の人々は、罪も恐れも知らず、男を愛して迎え入れた。ところが男は、冗談のつもりだったかもしれない一言から、彼らに嘘をつくことを教えてしまう。嘘から嫉妬や残酷さ、誇りが生まれ、その楽園は堕落していく。目覚めた男は、誰もが自分を愛するように兄弟を愛する時が地上に来ると説く者になる。文芸理論家でドストエフスキー研究者のバフチンは、この短編をドストエフスキーの最も重要な主題のほぼ完全な百科事典と評した。苦しみは愛の条件として単純に賛美されているのではなく、堕落を知った人間がなお愛を説くという、ねじれた道筋の中に置かれている。
この言葉を残した人物
「愛」の名言
「大切なものは、目に見えない」
サン=テグジュペリの『星の王子さま』で、キツネが王子に別れ際に秘密として教える言葉。
「仁とは人を愛することである」
『論語』顔淵篇で、弟子の樊遅に仁とは何かと問われた孔子が答えた言葉。
「他者の苦しみへの共苦こそが道徳の基盤である」
ショーペンハウアーが『道徳の基礎について』で、共苦こそ道徳の土台だと説いた主張を短くまとめた言葉。
「他者の顔は「殺すなかれ」と語りかける」
レヴィナスが『全体性と無限』で、他者の顔の最初の言葉は「汝殺すなかれ」だと書いた一節に基づく言葉。
「我と汝」
ブーバーが主著『我と汝』の題に掲げた、世界への二つの関わり方の一方を示す根源語。
「愛は技術である」
フロムが『愛するということ』で、愛は学んで身につける技術だと説いた言葉。