同じ食べ物から、普通の人の100倍の満足を得られる存在がいるとします。全員の食べ物をその存在に渡せば、社会全体の満足の総量は最大になります。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
同じ食べ物から、普通の人の100倍の満足を得られる存在がいるとします。全員の食べ物をその存在に渡せば、社会全体の満足の総量は最大になります。
渡すべきですか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問いを作った人
ロバート・ノージックが1974年に出しました。功利主義への短い一撃です。
功利主義は、満足の総量を最大にせよと言います。ならば、効率よく満足に変換できる者に資源を集めるのが正解になります。
これは極端な例に見えますが、功利主義の計算をそのまま使っているだけです。おかしな結論が出るなら、おかしいのは計算のほうではないか。
ノージックはこの一撃で、総量を最大化するという発想そのものに、分配を無視する欠陥があることを示しました。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
数で決める。総量が最大になるなら、それが正しい。功利主義を貫くとここに着きます。 ノージックが仕掛けたのは、ここまで貫ける人はいないだろう、という賭けでした。
それ自体で価値がある。一人のために全員を犠牲にする形は認められない。人を単なる手段として扱うことへの拒否で、カントの筋です。一人ひとりの価値は、総量にどれだけ足せるかとは別のところにある、という考え方になります。
弱い側に寄せる。いちばん条件の悪い人がどうなるかを先に見るべきだ。ロールズの立場で、総量でなく最低線を見ることでこの問題を回避します。
定義を疑う。満足の量を人の間で足し合わせられるという前提がおかしい。これがいちばん深い反論です。 あなたの喜びと私の喜びを足し算できるという想定に、根拠はあるのか。
「100倍」は測れるのか
4つ目の答えを、もう少し追ってみます。
私の痛みと、あなたの痛みを比べる方法がありません。 同じ怪我をしても、感じ方は違うでしょう。それを数字にして足し合わせるには、共通の単位が要ります。
その単位は、どこにもありません。功利主義の計算は、測れないものを測れるふりをしているという批判が、ここから出てきます。
ベンサムは快楽の強さ・持続・確実性など7つの基準で計算しようとしましたが、実際に数値化できたことはありません。
現実の「怪物」は、もっと地味です
100倍の存在は空想ですが、似た構造は現実にあります。
限られた予算を、効果が大きい場所に集中させる。費用対効果の高い事業を優先する。 これは日常的に行われている判断で、功利主義そのものです。
そして同じ問題が起きます。効果の出にくい人が、後回しになり続ける。 少数の難病、過疎地の医療、支援の届きにくい層。
怪物は、効率という顔をしてやってきます。
いま、この問いが出てくる場所
限られた資源をどう配るかは、政策のほぼすべてに関わります。
功利主義は強力な道具です。総量を増やすという目標は、明快で測りやすい。 だからこそ、この一撃が要ります。
総量が最大なら正しい、で止まらないこと。 ノージックが残したのは、そのためのブレーキです。