両手を打てば音がします。では、片手ではどんな音がするか。
師はそう問い、答えを持ってくるまで下がることを許しません。理屈で答えると、ことごとく退けられます。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
両手を打てば音がします。では、片手ではどんな音がするか。師はそう問い、答えを持ってくるまで下がることを許しません。理屈で答えると、ことごとく退けられます。
この問いには、答えがありますか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問いを作った人
江戸時代の禅僧、白隠慧鶴です。18世紀に、修行者に与える課題として考案しました。
禅では、こうした問いを公案と呼びます。有名なものに「無」の公案があり、犬に仏性はあるかと問われた師が「無」とだけ答えた、という話が使われます。
公案は、謎解きではありません。 正解を当てて先へ進む試験ではない。
狙いは、理屈で答えようとする働きを行き止まりに追い込むことにあります。考えても考えても届かない。その袋小路で、思考の外に出る。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
暮らしで決める。答えは言葉ではなく、態度や動作で示すものだ。禅の実際の運用に近い答えです。修行者は言葉でなく、その場のふるまいで応えることを求められます。
言葉の問題とみる。答えがないことを分からせるための問いだ。問いの機能を外から説明する立場です。ただしこの説明自体が、また理屈になります。
人の側の限界とする。人の理屈が届く範囲の外にある。神秘主義的な読み方です。答えはあるが、言葉と論理で捕まえられる形をしていない。禅がこの読み方を警戒するのは、外に何かがあると言った時点で、また理屈が始まってしまうからです。
定義を疑う。答えとは何かを、この問いは崩しにいっている。いちばん公案の意図に近いかもしれません。正解を持ってくれば通してもらえる、という前提そのものを外させる。問いに答えることを覚えた頭を、いったん止めるための仕掛けです。
ウィトゲンシュタインと似ていて、違います
ウィトゲンシュタインも、言葉で語りえないものがあると考えました。彼の初期の著作は、語りえぬものについては沈黙しなければならない、という一文で終わります。
禅の公案も、言葉の限界を指しています。そこまでは似ています。
違うのは、その先です。 ウィトゲンシュタインは沈黙を勧めました。禅は、沈黙ではなく振る舞いを求めます。 答えられないから黙るのではなく、言葉でない仕方で応えろ、と。
限界に触れたあとに何をするかで、道が分かれています。
外から説明できないことが、この問いの性質です
公案の困ったところは、説明した瞬間に効力を失うことです。
理屈で答えを与えられれば、それは理屈の中に戻ってしまいます。行き止まりに追い込むという機能が、働かなくなる。
だからこの記事も、公案そのものを扱えていません。外側の構造を説明しているだけです。 それは公案を経験することとは、まったく別のことです。
このシリーズの中で、唯一そういう性質を持った問いです。
いま、この問いが出てくる場所
答えの出ない問いを持ち続けることを、無駄だと感じる人は多いでしょう。
ですが、すぐに答えが出る問いだけを扱っていると、扱える範囲が狭くなります。
公案が訓練しているのは、答えを出す力ではなく、答えが出ないまま考え続ける力のほうです。判断保留を能力として扱ったピュロンと、方向は近いところにあります。