妻が死にかけています。効く薬はありますが、薬屋は原価の10倍の値をつけ、値引きも分割も断りました。ハインツはあらゆる手を尽くしましたが、金が足りません。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
妻が死にかけています。効く薬はありますが、薬屋は原価の10倍の値をつけ、値引きも分割も断りました。ハインツはあらゆる手を尽くしましたが、金が足りません。
ハインツは、薬を盗むべきですか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問いを作った人
心理学者ローレンス・コールバーグが1958年から使いました。哲学の問いというより、測定の道具として作られています。
彼が知りたかったのは、盗むべきかどうかではありません。なぜそう答えたかのほうです。
同じ「盗むべきだ」でも、理由はいろいろあります。捕まらないから。妻が悲しむから。命は財産より重いから。理由の型によって、道徳の発達段階を6つに分けられるというのが彼の理論でした。
罰を避ける段階から始まり、損得の交換、周囲の期待、法と秩序、社会契約、そして普遍的な原理へ。答えの中身ではなく、理由づけの構造を見るという発想です。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
数で決める。命は財産より重い。比較して大きいほうを取るという、いちばん分かりやすい理屈です。
手を下さない。盗みは盗みで、事情があっても変わらない。カントの立場です。例外を認めれば、例外の判定を誰かがすることになります。
本人が決める。断られた以上、妻の意思を守る手段がほかにない。当事者の意思を優先する立場です。ただしここには、妻が盗みまで望んでいるのかという問いが残ります。生きたいという意思と、そのために夫が罪を負うことへの同意は、別のものです。
決め方をそろえる。値付けが不当なら、それを正す筋道で争うべきだ。個別に破るのではなく、仕組みを直すという答えで、コールバーグの段階論ではかなり高い位置に置かれます。
コールバーグへの批判
この理論には、有名な反論があります。
心理学者キャロル・ギリガンは、コールバーグの研究が男性を中心に行われていたことを指摘しました。そして、女性の回答が低い段階に分類されがちだと指摘します。ただしその後のメタ分析では、段階評定に安定した性差はほとんど見つかっていません。
ギリガンによれば、女性の回答に多く見られたのは、関係の中で考えるやり方でした。薬屋と話し合えないか。夫が捕まったら妻はどうなるか。
コールバーグの尺度は、抽象的な原理で答えるほど高い点をつけます。 具体的な関係を考えることを、未熟さとして扱ってしまう。
ここから、ケアの倫理という別の系譜が生まれました。
尺度が、答えの形を決めてしまう
この論争が示したのは、思考実験の使い方への警告でもあります。
測る道具が、何を成熟とみなすかを先に決めています。 原理で答える人が高得点になる尺度を使えば、原理で答える人が成熟していることになる。
ハインツのジレンマは、いまも教育で広く使われます。ただし、6段階のほうは大きく修正されました。
いま、この問いが出てくる場所
生きるために規則を破らざるを得ない状況は、実際に起こります。万引きの背景に困窮がある事件は、繰り返し報道されます。
そのとき問われるのは、盗んだかどうかではなく、そこまで追い詰める仕組みのほうです。 コールバーグの高い段階が向いていたのも、そちらの方向でした。