暴走した車両が5人に向かっています。あなたは線路をまたぐ橋の上にいて、隣に大きな体の人が立っています。その人を突き落とせば車両は止まり、5人は助かります。
数は、レバーを引いて車両の進路を変えるトロッコ問題とまったく同じです。1人を犠牲に、5人が助かる。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
暴走した車両が5人に向かっています。あなたは線路をまたぐ橋の上にいて、隣に大きな体の人が立っています。その人を突き落とせば車両は止まり、5人は助かります。落とされた人は助かりません。
突き落としますか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
数が同じなのに、答えが変わります
調査では、レバーを引くと答える人は多数派です。突き落とすと答える人は、少数派になります。
同じ人が、同じ日に、両方の問いに答えても、答えが変わります。
数が同じなのに答えが変わるなら、効いているのは数ではありません。 これがこの変化形の狙いです。フィリッパ・フットが1967年に出したトロッコ問題に、ジュディス・ジャーヴィス・トムソンがこの形を加えました。1976年の論文に現れ、1985年の論文で正面から論じられています。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
数で決める。5人と1人という数は、レバーを引く場合と変わらない。論理としては一貫しています。 ベンサムの功利主義を貫くなら、レバーと橋を区別する理由はありません。
手を下さない。自分の手で人を死なせることになる。多くの人が感じるのはこれです。 カントの義務論は、人を単なる手段として扱ってはならないと言います。橋の上の人は、車両を止めるための道具として使われています。
立場で決める。通りかかっただけの自分に、その権利はない。誰が決めてよいのかという、正しさとは別の軸です。
本人が決める。事情を話して、本人に決めてもらう。同意があれば話が変わるという直観で、この直観の強さ自体が、義務論の言い分を裏付けています。
差がどこにあるのかは、まだ決着していません
説明はいくつも出されました。
手で触れるかどうか。押すという身体的な接触が抵抗を生む。遠隔で落とし戸を開ける形にすると抵抗は下がりますが、レバーを引くだけの形ほどには下がりません。
手段として使うかどうか。レバーの場合、1人は「たまたま進路にいた」だけです。橋の場合、その人の体がなければ計画が成立しません。 道具として組み込まれている。この説明が現在は有力です。
至近距離の情動。脳の画像研究では、橋の問題を考えるとき、感情に関わる部位がより強く働くと報告されています。ただしその反応が正しさの証拠になるかは、別の話です。
直観が割れることの意味
大事なのは、どちらの直観も捨てにくいことです。
数を無視するのは無責任に思えます。同時に、人を道具として使うことも受け入れがたい。 両方が本物の道徳的直観で、それが正面から衝突しています。
トロッコ問題が50年議論されてきたのは、どちらか一方を切り捨てられないからです。
いま、この問いが出てくる場所
一部の人を犠牲にして多数を守る判断は、すでに制度の中にあります。人工呼吸器が足りないとき、まだ着けていない患者のあいだで順番を決めるのはレバー型です。すでに着けている患者から外して、助かる見込みの高い人に付け替えるなら、橋型になります。
前者は指針に書けます。後者は、ほとんどの指針が書けずにいます。数の勘定は同じなのに、書けるものと書けないものが分かれる。 その線がここにあります。
やむを得ず巻き込まれたのか、それとも誰かを手段として使ったのか。結果が同じでも、この線がどちらにあるかで、責任の問われ方が変わります。