とてつもなく力のある悪い霊がいて、あなたを騙すことだけに全力を注いでいる。空も大地も、あなたの体も、二足す三が五になることさえ、その霊が見せている幻かもしれません。
そこまで疑ったとき、何か残るでしょうか。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
とてつもなく力のある悪い霊がいて、あなたを騙すことだけに全力を注いでいるとします。空も大地も、あなたの体も、二足す三が五になることさえ、その霊が見せている幻かもしれません。
確かだと言えるものは、残りますか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問いを作った人
デカルトが1641年に書いたものです。
読み方を間違えやすいのですが、デカルトは世界を疑っていません。 彼は数学者で、確実な学問の土台を作ろうとしていました。そのために、少しでも疑える材料をいったん全部外すという手順を踏んだだけです。工事の前に地面を掘る作業に近い。
夢の疑いから始めて、次に数学まで疑うために悪霊を持ち出します。夢の中でも三角形の角の和は変わらないので、夢では数学を疑えない。そこで、計算そのものを狂わせる存在を仮定したわけです。
そして、そこまで疑って残ったものが一つありました。騙されているとしても、騙されている何かがいなければ騙しようがない。私はある、私は存在する。 のちに「我思う、ゆえに我あり」として知られる考えです。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
疑いきる。騙されているとしても、騙されている私がいることは疑えない。デカルトの答えです。疑いを徹底したからこそ底に着いたという構造になっています。
判断を保留する。すべてを疑うと決めたなら、その結論も疑いの中にある。古代の懐疑主義からの反論で、鋭いところを突いています。「私がいる」の「私」とは何なのか。 考えが起きていることは認めても、そこに考える主体がいるとは限りません。
手がかりで決める。騙されていると考える理由が何も無い。トマス・リードやパースの筋で、疑いのほうに根拠を要求します。 可能性があるだけでは、疑う理由になりません。
暮らしで決める。疑っても暮らしは一ミリも変わらない。デカルト自身、疑っているあいだも普通に食事をしていました。書斎の疑いと生活の態度は別だという割り切りです。
実は、1200年前に同じことを書いた人がいます
4世紀から5世紀にかけて生きたアウグスティヌスが、ほぼ同じ議論をしています。もし私が騙されているなら、私は存在する。 騙されるためには、まず存在していなければならないからです。
似ていると指摘されたとき、デカルトは該当箇所を確かめたうえで、自分の使い方は違うと答えています。アウグスティヌスは神へ向かう道筋の一部として書き、デカルトは学問全体の土台として使った。同じ一文でも、何を支えさせるかで役割が変わります。
いま、この問いが出てくる場所
この悪霊は、脳を水槽で生かして信号を送る話や、この世界が作り物かもしれないという話の祖先です。騙す主体が霊からコンピュータに変わっただけで、構造は変わっていません。
そして残る答えも変わりません。どんな精巧な偽物の中にいても、いまこう考えていることだけは、外から作られたものではない。
この一点があるかどうかで、疑いは絶望にも出発点にもなります。