荘周は夢のなかで蝶になりました。ひらひらと飛びまわり、自分が荘周であることをすっかり忘れていました。
目が覚めると、まぎれもなく荘周です。ですが荘周は考えます。荘周が蝶の夢を見たのか、それとも蝶がいま荘周の夢を見ているのか。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
荘周は夢のなかで蝶になりました。ひらひらと飛びまわり、自分が荘周であることをすっかり忘れていました。目が覚めると、まぎれもなく荘周です。
いまのあなたは、どちらですか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問いを作った人
紀元前4世紀ごろの荘子です。デカルトが同じ形の疑いを立てるより、2000年近く早い。
ただし向かっている先がまるで違います。 デカルトは疑いを土台探しの手段として使い、「疑っている私がいる」という一点にたどりつきました。疑いを終わらせるために疑ったわけです。
荘子はそこへ行きません。話はこう結ばれます。荘周と蝶には必ず区別がある。それでも一方から他方へ移り変わる。この移り変わりそのものを、物化という言葉で呼びます。どちらが本当かを決めないまま、変わっていくことのほうを認めて終わります。
問いの形が同じでも、答えを出そうとするかどうかで、こんなに違う場所に着きます。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
手がかりで決める。目覚めているいまのほうに、確かな手がかりが揃っている。記憶が続き、話のつじつまが合い、他人と食い違わない。夢にはそれがありません。疑うには理由が要るという立場です。
判断を保留する。夢の中でも、そこが夢だとは分からなかった。この事実は重い。いま夢でないと感じていることは、いま夢でない証拠になりません。 ピュロンなら、ここで決めるのをやめます。
暮らしで決める。人と蝶の境目を立てること自体が要らない。荘子の答えにいちばん近いのはこれです。区別しないでいることが、投げ出しではなく積極的な態度になっています。
疑いきる。いまが夢でないという証明は、誰もしていない。デカルトの立場です。証明できないなら、いったん外して考える。
荘子が言いたかったのは、たぶん不安ではありません
この話は「現実が信じられなくなる怖い話」として紹介されることがありますが、原文の調子はまるで違います。楽しそうなのです。
蝶になった荘周は「楽しくて心のままに飛んだ」と書かれています。目覚めたあとも慌てていません。どちらが本当かが決まらないことを、困った事態として扱っていない。
ここが西洋の懐疑論との一番の違いです。デカルトにとって疑いは通過すべき苦しい場所でしたが、荘子にとっては区別が溶けることそのものが、目指す境地でした。
いま、この問いが出てくる場所
明晰夢の研究では、夢のなかで夢だと気づく訓練が行われています。ただし、訓練しなくても一度は経験する人が多いことも分かっています。気づけるかどうかは、はっきり分かれません。
VRの没入が深まるほど、この差は縮まります。ただ、荘子ならこう言うかもしれません。どちらであっても、いま蝶として飛んでいるなら、それでいいではないか。
区別に答えを出さないという選択肢が、ここにはあります。