脳が水槽の中にあり、電極から送られる信号だけでこの景色が作られている。信号は完璧なので、内側からは何も違って感じられません。
この可能性を否定する方法が、ひとつも見つからない。 そこがこの問いの厄介なところです。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
あなたの脳が体から取り出され、水槽の中で生かされているとします。神経には電極がつながれ、そこから送られる信号だけで、いまのこの景色も手ざわりも音も作られています。信号は完璧なので、内側からは何も違って感じられません。
いま見ているものは、本物ですか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問いを作った人
現代の形にしたのはアメリカの哲学者ヒラリー・パトナムで、1981年のことです。ただし骨組みは、すべてを欺く悪霊が偽の世界を見せているかもしれない、というデカルトの想定と同じで、そちらは1641年にさかのぼります。
パトナムがこの例を出したのは、懐疑を煽るためではなく、逆に封じるためでした。彼の議論はこうです。もしあなたが生まれてからずっと水槽の脳なら、あなたの言う「脳」も「水槽」も、本物の脳や水槽を指していません。信号の中のパターンを指しているだけです。
すると「私は水槽の脳かもしれない」という文は、それが本当なら偽になります。 自分で自分を打ち消すので、心配する必要はない、と。
うまい議論ですが、納得しない人も多くいます。言葉の意味の話で、世界がどうなっているかの不安が消えるのか、という反論です。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
手がかりで決める。疑う具体的な理由がひとつも無いなら、目の前のものを本物として扱う。トマス・リードやパースの筋で、疑いのほうにこそ根拠が要ると考えます。可能性があるだけでは疑う理由にならない。
判断を保留する。内側からは確かめようがないのだから、決めない。古代ギリシアのピュロンが取った態度です。決めないことは負けではなく、決められないものを決めないでおくのが正確な態度だと考えます。
疑いきる。疑える余地がある以上、いったん全部を外す。デカルトのやり方です。ただしデカルトは疑うこと自体が目的ではなく、疑いきった先に残るものを探すためにこれをやりました。
暮らしで決める。区別できず、どちらでも生活が変わらないなら、区別に意味は無い。プラグマティズムの考え方で、デューイたちが取った立場に近いものです。
「証明できない」と「疑うべき」は違います
この問いでつまずきやすいのは、その二つを混ぜてしまうことです。
本物だと証明できないのは、その通りです。内側から外側は見えません。ですがそこからだから疑うべきだは出てきません。証明できないことは無数にあり、そのすべてを疑っていたら何もできません。
デカルトはそれを承知の上で、あえて全部疑うという手順を踏みました。日常の態度としてではなく、土台を探すための一回きりの作業としてです。この区別を落とすと、水槽の脳はただの不安な話になります。
いま、この問いが出てくる場所
VR の解像度が上がり、AIが作る映像が見分けられなくなるほど、この問いは身近になります。
とくに効いてくるのは、証拠としての映像です。裁判でも報道でも、映っているものが本物かどうかを内側から判定できなくなりつつあります。水槽の脳が哲学の問いだったものが、認証や来歴の技術という実務の問題に変わりました。
手がかりで決めるという答えを選ぶなら、その手がかりを誰がどう保証するのかを、これから決めなければなりません。