誰も見ていない部屋に、机があります。誰も見ず、触れず、音も立てないとき、その机はどうなっているでしょうか。
見に行けば、必ずそこにあります。ですが見ていないあいだのことは、原理的に誰も確かめられません。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
誰も見ていない部屋に、机があります。誰も見ず、触れず、音も立てないとき、その机はどうなっているでしょうか。見に行けば必ずそこにありますが、見ていないあいだのことは、誰も確かめられません。
誰も見ていない机は、ありますか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問いを作った人
18世紀アイルランドの哲学者ジョージ・バークリーです。
バークリーの主張は、存在するとは知覚されることである、というものでした。机の性質を数え上げてみると、色、かたち、かたさ、重さ。そのどれもが、誰かが感じ取った内容です。 それらを全部取り除いたあとに残る「物そのもの」を、私たちは一度も経験したことがありません。
経験できないものをあると言うのは、経験主義の立場からすると根拠のない飛躍だ、というのが彼の指摘です。
有名な反論があります。サミュエル・ジョンソンが石を蹴飛ばして「これで論駁した」と言ったという逸話です。ただしこれは反論になっていません。蹴った感触もまた知覚だからです。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
手がかりで決める。見ていなくても物は物として続いている。常識であり、科学が前提にしている立場でもあります。ロックは、知覚される性質の背後に物質があると考えました。
暮らしで決める。見に行けば必ずあるのだから、あると考えて生活すればよい。存在するかどうかの問いを、予測が当たるかどうかの問いに置き換えています。 現代の科学哲学に近い態度です。
判断を保留する。あるかないかを言う手立てが、そもそも無い。ピュロン的な態度で、この問いに関してはかなり誠実な答えです。
疑いきる。知覚から独立した存在は、証明できたことがない。バークリー自身の立場です。ただし彼は世界が消えるとは言っていません。 神が常に知覚しているから世界は続く、というのが彼の答えでした。
この問いは、言葉の問題かもしれません
バークリーへの一番強い反論は、言い争っているのは世界のことではなく言葉のことではないかというものです。
「見ていなくても机はある」と言う人と「知覚されていないなら存在しない」と言う人は、予測がまったく同じです。 二人とも、部屋に行けば机があると考えている。二人が違うのは、その事実を何と呼ぶかだけかもしれません。
だとすれば、この論争に実質はないことになります。プラグマティズムはこの筋で懐疑論を無効化しようとしました。
いま、この問いが出てくる場所
観測が結果に関わるという話は、量子力学の解釈で実際に議論されています。ただしバークリーの主張とは論点が違うので、直接つなげるのは無理があります。
もっと身近なのは、記録されていない出来事の扱いです。誰も見ておらず、記録もなく、証言もない出来事は、あったことになるのか。裁判でも歴史でも、この形の問いは日常的に出てきます。
「あった」と「確かめられる」は違う。その差をどう扱うかは、いまも決着していません。