同じ塔が、遠くからは丸く、近くからは四角く見えます。同じ水が、冷えた手には温かく、温まった手には冷たく感じられます。
どちらが本当の姿かを決める基準を探すと、その基準が正しいかを決める基準が、また要ります。 そしてその基準にも、また基準が要る。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
同じ塔が、遠くからは丸く、近くからは四角く見えます。同じ水が、冷えた手には温かく、温まった手には冷たく感じられます。どちらが本当の姿かを決める基準を探すと、その基準が正しいかを決める基準がまた要ります。
本当の姿を、決めるべきですか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問いを作った人
紀元前4世紀のギリシアの哲学者ピュロンです。アレクサンドロス大王の遠征に同行し、インドの行者に会ったと伝えられています。
ただしピュロン自身は何も書き残していません。冒頭の塔や水の例も、基準の無限後退の議論も、数百年後にこの流れを受け継いだアイネシデモスやアグリッパにさかのぼります。
ピュロンの立場は、知らないと主張するのとも違います。知らないと言い切ることも、一つの断定だからです。彼が勧めたのは、どちらとも言わずに手を止めることでした。
そしてここが面白いところなのですが、ピュロンはこれを心の平静を得る方法として説きました。理屈の遊びではありません。
どちらが正しいかを決めようとするから争いになり、決めたものが崩れるから苦しむ。決めなければ、崩れるものもない。 判断を止めた先に、静けさが来る、と。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
手がかりで決める。条件をそろえれば、どちらが正しいかは分かる。近くで見た四角のほうが正しい。科学が取っている立場で、観測条件を明示することで食い違いを解消します。
判断を保留する。決めないままでも困らないし、そのほうが心が乱れない。ピュロンの答えです。決めないことを消極的な態度としてではなく、到達点として置いています。
疑いきる。決めずに済ませると、疑いが底なしになる。デカルトの立場で、彼は懐疑を通過点として使いました。止まらずに底まで行けば、底があるという賭けです。
暮らしで決める。場面ごとに決めればよい。ヒュームに近い態度です。彼は哲学の書斎では懐疑論者でしたが、部屋を出れば普通に食事をし、友人と話しました。理屈で解けないものを、生活が解いてしまうと書いています。
決めないことは、何もしないことではありません
ピュロン主義への一番よくある誤解は、何も信じない人は生きていけないというものです。
これに対する古代からの答えははっきりしています。現れているものには従う。 蜂蜜が甘く感じられるなら甘いものとして食べる。ただし「蜂蜜は本性として甘い」とは言わない。
つまり止めているのは、見えている通りに扱うことではなく、見えている通りが本当だと断定することだけです。この区別が保てるかどうかで、この立場が成り立つかが決まります。
いま、この問いが出てくる場所
速報が出た直後の数日、断片だけが回って、どちらの言い分も筋が通って見える時間があります。そこで「どっちだと思う」に答えないでいると、たいてい逃げていると受け取られます。
ピュロンなら、急かす側のほうを疑えと言うでしょう。現れているものには従う。 危ないと言われていることは避ける。ただし、あの人がやった、とはまだ言わない。
判断保留は、判断力の欠如ではない。2300年前の態度がいま取りにくいのは、黙っていること自体が、一つの表明として読まれるからです。