カフェの給仕が、あまりにも給仕らしくふるまっています。 歩き方も、言葉づかいも、盆の持ち方も、給仕という役をそのまま演じているようです。
本人は、それが自分だと思っています。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
カフェの給仕が、あまりにも給仕らしくふるまっています。歩き方も言葉づかいも、給仕という役をそのまま演じているようです。本人は、それが自分だと思っています。
その人は、自分をごまかしていますか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この場面を書いた人
サルトルが1943年に書いた、有名な観察です。
彼が言いたかったのは、この給仕は給仕であろうとしすぎているということでした。人間は物のように「である」ことができません。机は机であるほかありませんが、人は違う。明日やめることもできるし、いま盆を落とすこともできる。
その自由から目をそらすために、役に自分を溶かし込む。サルトルはこれを自己欺瞞と呼びました。不誠実と訳されることもあります。
嘘との違いが重要です。嘘は相手を騙します。自己欺瞞は、自分が自分を騙します。 騙す側と騙される側が同じ人なので、成立するはずがないのに、実際には成立します。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
本人が決める。役に逃げ込んで、自分で選ぶことから目をそらしている。サルトルの立場です。人間は自由の刑に処せられているという彼の言葉は、この重さを指しています。
立場で決める。引き受けた役をきちんと務めるのは、それ自体まっとうなことだ。サルトルへの最も強い反論です。役割を果たすことを不誠実と呼ぶなら、社会は成り立ちません。
まわりが認めるかで決める。周りが認める役こそがその人で、奥に別の本体があるわけではない。ヘーゲルは、自己が他者の承認のなかで成り立つと考えました。ならば役こそが自己であって、その奥に別の本体がある必要はありません。 演じることと本当の自分でいることの区別のほうが、そもそも立たなくなります。
決めない。何が本当の自分かを、外から言うことはできない。サルトルの一番弱いところを突いています。彼は給仕を外から見て、自己欺瞞だと判定しました。その判定の根拠はどこにあるのか。キルケゴールは、自己とは自分自身に関わる関わりのことだと書きました。関わりの外にいる者には、それが本物かどうかは見えません。
「本当の自分」があるという前提
この議論には、隠れた前提があります。役の奥に、演じていない自分がいるという前提です。
ところがサルトル自身は、それを否定しています。実存は本質に先立つ。 つまり、あらかじめ決まった自分などない。
すると妙なことになります。役の奥に本当の自分がいないのなら、役に溶けることの何が問題なのか。
サルトルの答えは、本当の自分が隠されているからではなく、選び続けているという事実から目をそらしているからだ、というものです。中身の問題ではなく、態度の問題として書かれています。
いま、この問いが出てくる場所
肩書きや役割で自分を語ることは、いまのほうが増えています。プロフィール欄に書ける属性が、そのまま自己紹介になる。
サルトルなら、そこに二つの可能性を見るでしょう。役を引き受けて働くことと、役に隠れて選ぶのをやめることは、外から見ると同じ形をしています。
違いは、やめられると分かっているかどうかだけです。 そしてそれは、本人にしか分かりません。