入門編 · 問いから始まる旅 · 第13章
言葉は世界をどう作るか
英語を勉強していると、「肩が凝った」をうまく訳せずに困ったことがある人は多いはずです。stiff shoulders と書いてみても、英語話者にはあのじわっと重い感覚は伝わりません。逆に英語の awkward を「気まずい」と訳すと、なにかが少しずれます。同じ世界を見ているはずなのに、言葉を変えると風景の切り取り方が違う。哲学はこの違和感を、世界そのものへの問いに育てていきました。
「赤」と「red」は同じものを指すか
素朴に考えれば、「赤」も red も同じ波長の光を指しているように見えます。けれども色彩語彙の研究は、言語によって色の区切り方が違うことを明らかにしてきました。日本語が伝統的に青と緑を「あお」一語で覆ってきたことや、ロシア語が淡い青と濃い青を別の単語で扱うことは、よく知られた例です。
言語が違えば、世界の見え方そのものまで微妙に違ってきます。20世紀前半のサピアとウォーフが提唱したこの仮説は、強い形では否定されつつも、弱い形では多くの実験で支持され続けています。私たちは世界を裸で見ているのではなく、母語というレンズを通して見ているのかもしれません。
言葉が世界を切り取る
この発想を哲学のレベルで突き詰めたのが、20世紀前半のウィトゲンシュタインでした。前期の主著『論理哲学論考』で彼は、言語の構造と世界の構造は写像関係にある、と論じます。命題が事実を写し取るのは、両者が同じ論理形式を共有しているからだ、というのです。
この見方の帰結として、言語で表現できないものについては私たちは何も知りえない、ということになります。倫理、美、宗教、人生の意味、こうした最も深く感じられる事柄は、語りうるものの境界の向こう側にあると、彼は考えました。言語的相対性の議論とも響き合いながら、言葉は世界の限界を画す道具となります。
語りえぬものには沈黙せよ
『論理哲学論考』の最終命題は、哲学史上もっとも有名な一文の一つです。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」。これは「重要なことは何もない」という冷たい宣言ではなく、むしろ「最も重要なことは語りえないところにある」という、敬虔とすら言える示唆でした。
若きウィトゲンシュタインは、この本ですべての哲学の問題を解決したと信じ、しばらく哲学から離れます。けれども、長い沈黙のあとに彼が戻ってきたとき、その自分自身の出発点を厳しく批判することになりました。
あなたが「うまく言えない」と感じるとき、それは語彙の不足でしょうか、それとも言葉そのものの限界でしょうか。
言語ゲーム:意味は使われ方に宿る
後期の代表作『哲学探究』のなかで、ウィトゲンシュタインはまったく違う言語観を提示しました。言葉の意味は、世界の対象を写すことにあるのではなく、それが生活のなかでどう使われているかにある、と。「水!」という一言は、喉が渇いた人の頼みかもしれず、火事の現場での命令かもしれず、グラスを持って差し出されたサービスかもしれません。意味は文脈と実践、すなわち言語ゲームのなかに宿るのです。
肩こりの英訳に困るのは、英語話者の生活の中にあのじわっとした感覚を扱う場面、それを誰かに訴える場面、誰かをそれで気遣う場面、こうしたゲームがほとんど存在しないからかもしれません。言葉は世界を作る。それは比喩ではなく、私たちが何を経験できるかの輪郭そのものを言葉が形作るからです。分析哲学の伝統は、ここから現代まで延々と展開してきました。次章では、言葉の枠の少し外側、美の経験へと向かいます。
問いから始まる旅 · 第13章