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入門編 · 問いから始まる旅 · 第12

死とどう向き合うか

深夜、ふと「自分もいつかは消えてなくなる」という事実が頭をよぎって眠れなくなった経験はないでしょうか。日中の忙しさのなかでは押し込められていた問いが、ベッドの中で急に膨れ上がってきます。死について考えることは、不健全でも病的でもなく、おそらく人間が人間である限り避けられない営みです。哲学はこの問いを正面から扱ってきた数少ない場所の一つです。

死を恐れるのは自然か

人類は太古から、死を恐れ、死を儀式ぎしきで覆い、死を乗り越える物語を作ってきました。現代の私たちは医療技術と長寿の恩恵を受けながらも、かえって死を視界の外に追いやり、いざ向き合うときの戸惑いを大きくしているとも言えます。

そもそも死を恐れる気持ちには、いくつもの異なる成分が混じっています。痛みへの恐怖、残される人への気がかり、自分という意識が消えることへの不安、何ものこせなかったかもしれないという悔い。哲学者たちはこれらを丁寧に区別しながら、それぞれに別の答え方を試みてきました。

死は私には関係ない:エピクロスの慰め

紀元前4世紀のギリシャで、エピクロスはきわめて冷静な議論を提示しました。死は私たちにとって何ものでもありません。なぜなら、私が生きているあいだ死は存在せず、死が訪れたときにはもう私は存在しないからだ、と。経験する主体がいない以上、死そのものは苦痛ではありえない、というわけです。

ローマのマルクス・アウレリウスに代表されるストア哲学もまた、死を自然の摂理せつりの一部として静かに受け入れることを説きました。彼は自省録のなかで、生まれることがそうであったように、死もまた自然の作用にすぎないと、自分に繰り返し言い聞かせています。

あなたが死を恐れるとき、本当に恐れているのは「死そのもの」ですか。それとも「やり残すこと」「忘れられること」のような別の何かですか。

死への存在:ハイデガーの本来性

20世紀のハイデガーは、まったく別の角度から死を考えました。存在と時間のなかで彼は、人間とは「死へと向かう存在」であり、自分の有限性を引き受けたときにはじめて、本来の自分として生きることができると論じます。

普段の私たちは「ひと(ダス・マン)」として、世間の関心や流行に紛れて生きています。けれども、自分の死だけは誰にも代わってもらえません。この代替不可能性だいたいふかのうせいに直面したとき、人は世間の喧騒から自分を取り戻し、何が本当に大切なのかを問い始める。死を見つめることが、生を本物にする、というわけです。

終わりがあるからこそ意味がある

フランスのカミュは、死と意味の関係をまた違う形で描きました。世界は人間に意味を与えてくれません。それでも人は意味を求め続けます。この不釣り合いを彼は不条理ふじょうりと呼び、そのうえでなお生き続けること、反抗し続けることに尊厳を見いだしました。シーシュポスは岩を山頂さんちょうへ運び続け、それが転がり落ちるのを見送り、また下りてきます。それでも私たちは、シーシュポスが幸福だと想像しなければならない、と彼は書きました。

終わりがあるからこそ、今日のコーヒー一杯にも、誰かと交わす言葉にも、二度と戻らない時間が宿ります。実存主義の伝統は、死の影のなかでこそ生が輝くという逆説を、繰り返し語ってきました。次章では、その生を組み立てている見えない素材、つまり言葉の話に進みます。

→ 「死は怖いものか」を読む

→ 「人生に意味はあるのか」を読む

問いから始まる旅 · 第12