入門編 · いま、ここで考える · 第49章
環境と未来世代:地球倫理の問い
今年の夏も、最高気温の更新がニュースを埋めました。エアコンを止められず、それでいて電気代の請求書を見ては罪悪感がよぎる。子どもや甥姪の顔を思い浮かべると、この子たちが大人になる頃の地球はどうなっているのだろうと、ふと胸が締めつけられます。私たちは、まだ生まれていない人々に対して何かを負っているのでしょうか。哲学はこの問いに、長らく答えを用意してきませんでした。
自然はだれのものか
近代哲学は、自然をおおむね「人間が利用する資源」として扱ってきました。デカルトは動物を機械とみなし、ロックは労働を加えた土地は自分のものになると論じました。資本主義と科学技術の組み合わせは、この発想の延長線上にあります。
しかし20世紀後半、公害・砂漠化・絶滅・気候変動が次々と顕在化するにつれ、自然を所有と利用の対象とだけ見る発想に疑いが向けられます。環境倫理学という新しい分野は、人間中心主義をどこまで相対化できるかを真剣に問い始めました。森や川や生態系それ自体に内在的価値はあるのか。あるとすれば、私たちはどこまで配慮の輪を広げるべきか。
動物に権利はあるか:シンガーの問い
オーストラリアの哲学者ピーター・シンガーは1975年、『動物の解放』のなかで強い問いを投げかけました。苦痛を感じる能力を倫理的配慮の基準とするなら、その線は人類の縁で止まる理由がありません。種が違うことを理由に動物の苦しみを軽く見るのは、肌の色や性別を理由に差別するのと同じ構造、すなわち「種差別」だ、と。
畜産工場での扱い、毛皮、動物実験。彼の議論は、私たちが目をそらしてきた現実に光を当てました。賛否は分かれるにせよ、ヴィーガンや動物福祉の議論が日本でも広がりつつある背景には、この種の哲学的な問い直しがあります。
未来世代への責任
環境問題には、もう一つ厄介な特徴があります。被害を受けるのは多くの場合、まだ生まれていない人々であり、彼らはこちらと交渉も契約もできない、ということです。
ドイツの哲学者ハンス・ヨナスは『責任という原理』で、技術文明の力が桁違いに大きくなった現代では、未来世代の存在条件を破壊しないこと自体が新しい倫理の核になるべきだと論じました。「未来において人類が存続するように行為せよ」という命法は、カントの定言命法を地球規模・世代横断的に書き直す試みでもあります。
まだ会ったことのない100年後の誰かに対して、あなたは何を負っていると感じますか。その感覚は、どこから湧いてくるのでしょう。
気候正義と哲学
気候変動はさらに、世界のなかでの不公平を露わにしました。温室効果ガスを大量に排出してきたのは主に先進国であるのに、被害を最も深刻に受けるのは低海抜の島嶼国や乾燥地帯の貧しい国々です。気候正義(climate justice)と呼ばれるこの論点は、環境倫理を国際政治哲学・分配正義論と接続させます。
一人ひとりがマイバッグを持つことだけでは到底追いつかない、構造的な問題がそこにあります。哲学にできるのは、問題の輪郭を澄んだ言葉で描き直し、選択の重みを示すことです。次章では、同じ「不公平」をより身近な格差と承認の問題として扱います。
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