専門編 · 哲学の主要分野 · 第83章
美学:美はどう判断されるか
1917年4月10日、ニューヨークの独立美術家協会展覧会の事務局に、署名「R. Mutt」と書かれた小便器が「泉」というタイトルで届きました。協会は出展を拒否します。送り主は会員のマルセル・デュシャンであり、自分が選んだ既製品(レディメイド)も芸術と呼べるかを試した実験でした。本章ではこの事件以降、美学が答えてきた問いの軌跡を辿ります。
模倣・表現・形式 — 西洋美学の三つの伝統
デュシャン以前の美学は、概ね三つの理論で芸術を説明してきました。プラトンとアリストテレスから受け継がれた模倣理論は、芸術を自然や行為の模倣と見ます。古代ギリシアの彫刻が示す身体の理想化はその典型です。19世紀ロマン主義は、これを内面の表現理論で更新しました。芸術は感情の表現であり、優れた作品は作者の内的体験を観客に伝染させる。
20世紀初頭の形式主義は第三の道を提案します。ロジャー・フライやクライヴ・ベルは、芸術の本質を「有意味な形式(significant form)」、つまり線・色・面の構成それ自体に求めました。何を描くかではなく、どう構成されているかが芸術を芸術たらしめる、と。この三つの伝統はそれぞれ強力ですが、いずれもデュシャンの便器を説明できません。便器は何も模倣せず、何も表現せず、独自の形式を持つわけでもないからです。
ディッキーの制度的芸術論
1974年、アメリカの哲学者ジョージ・ディッキーは『芸術と美的なもの』で制度的芸術論を提案しました。ある対象が芸術作品であるのは、「美術界(artworld)」の代表者によって芸術品としての地位を授けられたときです。この一見トートロジックな定義は、デュシャンの便器を説明できます。それは美術館の壁に展示され、批評家が論じ、コレクターが取引する制度的状況のなかで芸術になります。
制度論は明らかに循環的だと批判されました。「美術界が芸術と呼ぶものが芸術」というのでは、何も説明していません。だが擁護派は、これは芸術の必要十分条件ではなく、芸術成立の社会的構造を記述しているのだと反論します。バンクシーがロンドンの壁に描いた絵がオークションで億単位で取引される現象は、まさに制度論的視点で初めて理解できる出来事です。
グッドマンの「いつ芸術か」
1977年、ハーバードのネルソン・グッドマンは「芸術とは何か」ではなく「いつ芸術か」と問いました。同じ便器でも、デパートの売場では便器であり、デュシャンの展示では芸術になります。同じ風景画でも、応接間の装飾品として機能するか、美術館で象徴的記号システムとして機能するかで、芸術としての存在様式が異なります。芸術は対象の本質ではなく、機能の様式なのです。
グッドマンの問いの転換は、現代の文化論に深い影響を与えました。芸術と非芸術の境界は固定的ではなく、文脈・意図・制度・受容者の応答によって動く。「これは芸術か」という疑問は、対象を見つめることでは決着しません。では作品が文脈を超えて直接訴えかけてくる感覚は何か。これが次の問題でもあります。
環境美学と非西洋美学 — 西洋中心の枠を解く
20世紀末から、美学は西洋中心の枠組みを問い直し始めました。アレン・カールソンらの環境美学は、絵画や彫刻だけでなく自然環境そのものを美的対象として扱います。山や森や川の美をどう判断するか。それは絵画を見るのと同じ趣味判断なのか、それとも別の能力を要するのか。観光、建築、都市計画にまで波及するこの問いは、現代の応用美学の中心的トピックです。
日本美学からの貢献も重要です。九鬼周造の『「いき」の構造』、和辻哲郎の風土論、岡倉天心『茶の本』は、もののあはれ・わび・さび・幽玄といった概念を体系化し、西洋の美学的範疇とは異なる枠組みを提示しました。21世紀の美学は、芸術と非芸術、西洋と非西洋の境界を流動化しながら、「美しいとは何か」という古い問いを再び新しい場面で問い続けています。次章では、美ではなく善をめぐる現代倫理学に進みます。
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