『伝習録』
でんしゅうろく
王陽明·中世
王陽明の語録
この著作について
明代の儒者・王陽明《おうようめい》の語録と書簡を、弟子の徐愛《じょあい》・銭徳洪《せんとくこう》・王畿《おうき》らが集めて編んだ、陽明学の核心を伝える書物。
【内容】
上・中・下の三巻からなり、朱子学の格物致知を批判する議論が縦横に展開される。心即理の立場から、天理は外の事物のなかにではなく、自分の心のはたらき(良知)として内に備わっているとされ、「心外に理なし」と言い切られる。知と行を二つに切り離すことを強く戒め、「知は行の始め、行は知の成るなり」として知行合一が繰り返される。後年の中心的主題である「致良知」の教えは、心に照らして善悪を知り、そのまま行為に移す実践として提示される。具体的な弟子の質問に答える問答形式が中心で、生活や政事の場面で良知をどう働かせるかが生き生きと語られる。
【影響と意義】
朱子学の知識偏重への対抗として中国思想史を大きく動かし、日本では中江藤樹《なかえとうじゅ》・熊沢蕃山《くまざわばんざん》・大塩平八郎《おおしおへいはちろう》・佐久間象山《さくましょうざん》・吉田松陰《よしだしょういん》・西郷隆盛《さいごうたかもり》らに受け継がれた。幕末の変革期の行動哲学として大きな役割を果たしている。
【なぜ今読むか】
知識だけが増えて行動が追いつかない感覚は、情報過多の現代にこそ痛切である。「知って動かないのは、まだ知らないのだ」という本書の一句は、学びと実践の関係を問い直す強い刺激を与えてくれる。
さらに深く
【内容のあらまし】
本書は王陽明の語録と書簡を、彼の死後に弟子たちが編んだものである。学術論文ではなく、塾の問答や友人への手紙が中心だから、読み心地は驚くほど生々しい。弟子の徐愛、銭徳洪、王畿らが手元に書きとめた言葉が、編年順ではなく主題に沿って並べられている。
上巻の冒頭近くで、徐愛が朱子学の「格物致知」について質問する場面が出てくる。物にあたって理を窮めるとは、どういうことか。王陽明は意外な答えを返す。竹を相手に七日七晩座り込んで「竹の理」を窮めようとしたが、何も得られず病に倒れただけだった、という青年期の体験談がそこに語られる。それ以来、彼は理を心の外に求める朱子の方法を疑い、「心即理」という立場へ転回した。理は事物のなかに散らばっているのではなく、自分の心の働きとしてすでに備わっている、というのが彼の確信である。
中巻に入ると、書簡を中心とした議論が展開される。「答顧東橋書」「答羅整菴少宰書」など、当時の儒学者との論争のなかで、知行合一の主張が繰り返される。「知って行わざるは未だ知らざるなり」、つまり頭で理解しただけで体が動かないなら、それは本当に知ったことにはならない。親への孝を知るとは、親を温め扇ぐ手の動きまで含めての理解である、という具体例が挙げられる。
下巻になると、晩年の王陽明が到達した「致良知」の教えが前面に出てくる。良知とは、善を善とし悪を悪と直ちに知る心の本来のはたらきであり、これは聖人にも凡人にも等しく備わっている。学問とはこの良知に従って、誤った私欲のくもりを払うことに尽きる。弟子が「良知を致すとは、具体的にどうすればよいのか」と尋ねると、王陽明は日常の些細な選択の場で、心がどちらに傾くかをそのまま見守り、傾きをただすことだと答える。
語録の最後には、龍場の駅で悟りを開いた逸話や、戦場での応用のエピソードまで含まれ、思想と人生が一つになった人物の像が立ち上がってくる。
著者
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