『ピュロン主義哲学の概要』
ぴゅろんしゅぎてつがくのがいよう
セクストス・エンペイリコス·古代
古代懐疑主義の体系的記述を伝える基本文献
この著作について
二世紀頃の医学者にしてピュロン主義の哲学者セクストス・エンペイリコスが、失われたピュロンやアイネシデモスの議論を体系化して伝える古代懐疑主義の決定版。
【内容】
全三巻。第一巻ではピュロン主義の定義、「懐疑主義者とは常に探究し続ける人である」という性格規定、独断論と経験論との区別、判断保留(エポケー)と心の平静(アタラクシア)の関係、そして懐疑の十の様式(トロポイ)と五様式、二様式が整理される。第二・第三巻では、論理学、自然学、倫理学の各領域について、ストア派、エピクロス派、プラトン主義、アカデメイア派の主張を一つずつ吟味し、いずれにも決定的根拠が欠けることが示される。結論として、「立ち止まりはするが、それを絶対視しない」懐疑主義的生の作法が提案される。
【影響と意義】
ルネサンス期にエティエンヌやアンリ・エティエンヌらによるラテン語訳を通じてヨーロッパに再紹介され、モンテーニュ『エセー』、デカルトの方法的懐疑、ヒュームの経験論的懐疑、現代分析哲学の認識論的議論に深い影響を与え続けている。
【なぜ今読むか】
情報過多とフェイクニュースの時代に、「急いで結論を出さずに、もう一歩問いを深める」懐疑主義的作法は、精神の健康と議論の誠実さを支えるための古い実用書として、いまなお新鮮である。
さらに深く
【内容のあらまし】
冒頭でセクストスは、何かを探す人の行く末を三つに分ける。見つけたと言う者、見つけられないと言う者、なお探している者である。順にアリストテレスやエピクロス、ストアの学派などの独断論者、クレイトマコスやカルネアデスらアカデメイア派、最後が懐疑派だという。続けて、これから述べることは何ひとつ断定せず、いま自分に現れているままを記録するのだと断る。
第1巻は懐疑主義を総論として描く。その目的を論じる章には画家アペレスの逸話がある。馬の口の泡がどうしても描けず、絵具を拭った海綿を絵に投げつけると、それが泡の形を写した。判断を控えたとき平静が影のようについてくるのも、これに似ているという。十の様式の第一では、三叉路で二つの道に獲物の匂いがないと見ると、残る道を嗅がずに駆けだす犬が、推論の型に従っていると論じられる。動物を最も攻撃したクリュシッポス自身の説だという。別の様式の例には、日なたで震え日陰で暖まったという、アレクサンドロスの給仕デモフォンも登場する。後半は「より以上ではない」などの決まり文句を解く。どれも絶対に真だとは主張せず、下剤が体液とともに自らも体外に出るように、自分自身をも取り消しうると説く。巻末ではヘラクレイトスをはじめ近い学派との違いを確かめ、医学の経験派よりむしろ方法派が懐疑派に近いと結ぶ。
第2巻から各論に入る。懐疑派が独断論者の主張を理解しているなら疑えず、理解していないなら論じられないのだから、探究はできないはずだという反論に答えたのち、真理の規準を問う。規準を用いる主体である人間について、プラトンの描くソクラテスでさえ自分が人間なのか別の何かなのか知らないと告白している、と指摘する。しるし、証明、三段論法を順に検討し、帰納は、事例を一部だけ調べれば反例を見落とし、全部を調べるのは不可能だと退ける。詭弁を論じる巻末には、運動を否定する論法を広めたディオドロスが肩を脱臼して医師ヘロフィロスを訪ね、同じ論法でからかわれた話がある。
第3巻は自然学に移る。世間の習わしに従って神々の存在を断定せずに認め崇めると前置きしてから、独断論者への反論に入り、運動、時間、数を検討する。倫理学では、善とされるものが人によって割れる例として、快楽を善とする者がいる一方で、楽しむくらいなら狂ったほうがましだと叫んだ哲学者がいたと記す。最終章で、懐疑派は人間を愛する者として、独断論者のうぬぼれを言葉で治したいのだと述べる。医者が病の重さで薬の強さを変えるように、重症の相手には強い議論を、うぬぼれが浅く治りやすい相手にはあえて説得力の弱い議論を使うという。
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