『硝子戸の中』
がらすどのうち
近代
晩年の漱石が身辺と記憶を静かに綴った随筆
この著作について
夏目漱石が晩年の1915年1〜2月に東京朝日新聞に連載し、同年岩波書店から公刊した全39篇の随筆集。胃潰瘍の療養中、牛込早稲田の自宅の硝子戸(ガラスど)のなかから身辺と記憶を静かに見つめた、透明な筆致の日記文学である。
【内容】
訪ねてくる弟子や旧友、窓越しに眺める犬猫や庭木、母方の血筋、幼年期の養家時代、大塚保治や正岡子規らすでに亡き友との思い出、作家業のうえでの逡巡《しゅんじゅん》など、題材は日常の断片から人生の深奥まで幅広い。特定の主題を立てずに章から章へゆるやかに連なる構成で、『道草』と同じ時期の漱石の心境が最も素直な形で流れ出ている。
【影響と意義】
長編小説とは別の、漱石の随筆家としての到達点を示す一冊。『吾輩は猫である』の諧謔《かいぎゃく》も『こころ』の暗さも退き、晩年に独特の澄んだ諦念と優しさが立ち上がる。その文体は以後の日本私小説・随筆文学の一つの原型となった。
【なぜ今読むか】
病気と老い、友との別れ、仕事への疲れが交差する晩年の静かな視線は、忙しい現代の読者にこそ届く。短い章を一つずつ拾い読みできる気楽さも魅力である。
さらに深く
【内容のあらまし】
書斎の硝子戸越しに見えるのは、霜除けをした芭蕉、梅もどきの赤い実、電信柱くらいだ。全39章はそんな狭い眼界から始まる。電車で大きな活字だけを拾う読者に、こんな閑散な文字を見せるのは恥ずかしいと断ってから、漱石は書き出す。
最初の客は写真を撮りに来た雑誌社の男で、普段の顔でよいという約束だったのに、届いた写真は手を入れて笑わせたとしか見えなかった。続く3章は犬のヘクトーの話だ。トロイの勇将の名をもらった犬は、病み上がりの漱石が呼んでも応じなくなり、やがて近所の家の池に浮かんで見つかる。漱石は白木の墓標に「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」と書いた。
第6章から第8章は、悲しい過去を打ち明けに来た女性の話だ。自分の身の上を小説にするなら、その女を死なせるか生かすかと問われ、漱石は答えに詰まる。月夜に彼女を送る道で、彼は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と言う。続く章では、死を生より尊いと思いつつ、他人への助言は生の範囲でしかできない自分を見つめ直す。
中盤は来客と記憶が入れ替わる。樺太で中学校長をしている旧友Oは、出された栗饅頭をいつの間にかハンケチに包んで持ち出していた。床屋の亭主の昔話からは、十七、八のころトランプをした芸者が二十三の年にウラジオストクで死んだと知り、生き残りは自分と亭主だけのような気になる。筆は生家のあった馬場下へも及び、父が家紋の井桁に菊にちなんで町を喜久井町《きくいちょう》と名づけ、坂には自分の姓をつけたと語る。
雨の日、俥の上の顔を芸者かと見とれていたら、会釈したのは大塚楠緒子《おおつかくすおこ》だった。話は、入院中に手向けた「ある程の菊投げ入れよ棺の中」の句に行き着く。第29章は、里子先の古道具屋のざるに入れられ、夜店に並べられていた赤ん坊のころから語り出す。養子先から戻った少年は実の両親を祖父母と思い込んでいたが、ある夜、下女が本当のことを耳打ちした。うれしかったのは事実を知ったからでなく、下女が親切だったからだという。次の章では病状を問う客に、欧州の大戦になぞらえて「病気はまだ継続中です」と答える。
母を描く第37、38章は、大きな老眼鏡と紺無地の絽《ろ》の帷子《かたびら》という、わずかに残った姿をたどる。昼寝の悪夢で人の金を使い込んだと思い、大声で呼ぶと、母は二階へ来て、お金はいくらでも出してあげると微笑んだ。夢か本当か、漱石には今もわからない。
最終章の日曜日、漱石は机を縁側に持ち出す。鶯が下手にさえずるなか、自分の欠点をまだ書き尽くしていない、これは懺悔ではないと認めたうえで、硝子戸を開け放って稿を終え、縁側でひと眠りするつもりだと結ぶ。
著者
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