フィロソフィーマップ

砂山のパラドックス:何粒から、砂山でなくなりますか

1粒取っても砂山のまま。それを繰り返すと1粒になる。境目が引けないのに、私たちは日々線を引いている。

バケツ1杯の砂は、砂山です。1粒取り除いても、まだ砂山です。 それを繰り返すと、最後は1粒になります。1粒は砂山ではありません。

どこかで砂山でなくなったはずですが、その1粒を指せません。

まずは選んでみてください。

まず、選んでみる

バケツ1杯ぶんの砂が積んであります。数えれば1000万粒ほどです。これは砂山です。1粒取り除いても、まだ砂山です。1粒ずつ取り除いていくと、最後は1粒になります。1粒は砂山ではありません。

どこから、砂山でなくなりますか。

正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。

この問いを作った人

紀元前4世紀のエウブリデスとされます。ギリシャ語のソロス(積み重ね)から、ソライティーズと呼ばれます。

同じ形の問いは、たくさん作れます。髪が1本抜けてもハゲにならないが、繰り返せばハゲになる。 1円安くしても高価なままだが、繰り返せば安くなる。

共通するのは、個々の一歩には文句のつけようがないのに、全体としてはおかしな結論に着くことです。

4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている

どこかで線を引く。決めなければ、言葉として使えない。実務の答えです。法律も規格も、どこかで線を引いています。恣意的でも、無いよりましだ、と。

程度で見る。砂山かどうかは、濃さの違いでしかない。多値論理という道具立てがあり、真か偽かの二値ではなく、0から1のあいだの値を認めます。ラッセルは1923年に、日常の言葉はどれも程度を含んでいて、はっきり当てはまるかどうかが決まる語のほうが例外だと論じました。

何に使うかで決める。運ぶためか、数えるためか。使い道で線は動く。ウィトゲンシュタイン的な答えで、言葉の意味は使い方の中にあると考えます。

人の側の限界とする。線はどこかにあるが、それがどこかは人には知り得ない。認識説と呼ばれる立場です。答えが用意されていないのではなく、答えに手が届かないと考えます。素朴には受け入れがたいのですが、意外にも有力な見解の一つです。

論理を守るために、何を手放すか

4つ目は、線は実在するが人間には知り得ないと言い切ります。

この説の強みは、論理をそのまま保てることです。真か偽かの二値を崩さず、矛盾も出ません。犠牲になるのは、その線がどこかを人は知りうる、という直観のほうです。

弱点も明らかです。誰も知らない線を、誰が決めたのか。 使い方の総体が決めている、ただしそれは複雑すぎて人には追えない、というのがこの説の答えですが、納得しにくさは残ります。

線は引かないと、使えません

このパラドックスが実務的なのは、線を引かない選択肢が無いからです。

何歳から大人か。どこから障害か。いくらから高額か。どれも連続したものを、制度のために切っています。

そして線の近くには、必ず不公平が生まれます。1日違いで扱いが変わる。

砂山のパラドックスは、その不公平が制度の失敗ではなく、連続したものに線を引く以上、避けられないことを教えます。

いま、この問いが出てくる場所

支援の所得制限、年齢による区切り、判定の基準値。どれも境界のすぐそばに、割り切れない人がいます。

対処としては、線をぼかすやり方が取られます。段階的に減らす、経過措置を置く、複数の基準を組み合わせる。

線を引かないのではなく、線の痛みを分散させる。 2400年前の問いへの、現代の実務的な答えです。

関連する哲学者

関連する思想

関連する問い