飛んでいる矢を、一瞬だけ切り取って見ます。その一瞬において、矢は自分と同じ大きさの空間をぴたりと占めています。 つまり止まっています。
どの一瞬を取っても同じです。止まっているものをいくら集めても、動きにはならないはずです。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
飛んでいる矢を、一瞬だけ切り取って見ます。その一瞬において、矢は自分と同じ大きさの空間をぴたりと占めています。つまり止まっています。どの一瞬を取っても同じです。
矢は、動いていますか。
この問いには答えがあります。ただ、ほとんどの人が同じところでつまずきます。
アキレスと亀とは、狙いが違います
同じゼノンのパラドックスですが、攻める場所が逆です。
アキレスと亀は、空間を無限に分けられるという前提から矛盾を引き出しました。
飛ぶ矢は逆に、時間がそれ以上分けられない一瞬からできていると考えたときに矛盾が出ることを示します。
ゼノンは両方から攻めています。分けられるとしても、分けられないとしても、運動はおかしなことになる。 これが彼の戦法でした。師パルメニデスの、変化も運動も見せかけだという主張を、どちらの前提からも支えようとしたのです。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
計算で確かめる。一瞬の集まりを足せば、そこに動きがある。現代数学の答えです。速度は、位置の変化率として一瞬ごとに定義できます。微分という道具が、この問いに直接答えました。
経験を信じる。現に飛んで的に当たるのだから、議論のどこかが間違っている。アリストテレスの応答に近く、彼は一瞬という切り取り方自体が実在しないと考えました。
筋道に従う。どの一瞬でも止まっているなら、全体でも止まっている。ゼノン本人の立場です。目に見える運動のほうが錯覚だと引き受けます。師のパルメニデスが説いた、変化は見せかけにすぎないという主張を、彼はこの形で支えようとしました。
分けない。動きを一瞬に切り分けたことが、そもそもの誤りだ。ベルクソンの批判です。運動は分割できない一つの流れで、点に還元した時点で動きが消えている。
微分は、答えたのか
数学の答えは明快です。ある瞬間の速度は、その瞬間の位置ではなく、周辺の変化から決まる。 一瞬だけを見ても速度は見えませんが、極限として定義できます。
ただしベルクソンなら、こう返すでしょう。それは動きを計算できるようにしただけで、動きそのものを捉えたことにはならない。
扱えるようにすることと、正体を明らかにすることは別だ。 この区別を保つかどうかで、この問いが解決済みかどうかの評価が変わります。
いま、この問いが出てくる場所
動画は静止画の連続です。1秒に何十枚も並べれば、人には動いて見えます。
ですが、そこに動きは無い。あるのは静止画の列と、それを動きとして見る人間の側の働きです。
飛ぶ矢の問いは、この構造をそのまま言い当てています。世界を細かく刻んで扱う技術が増えるほど、刻んだあとに何が残るのかという問いも増えます。
一瞬という単位は、実在するのか
この問いの前提に、時間には幅ゼロの一瞬があるという想定があります。
ところが、幅ゼロの時間に何かが起きるでしょうか。幅がゼロなら、そこでは何も変化しません。 変化には、前と後が要ります。
だとすれば、静止しているという判定自体が怪しくなります。動いていないのではなく、動いているとも止まっているとも言えない。 判定できる場所ではないからです。
現代物理では、時間に最小の単位があるかどうかが未解決です。もし最小単位があるなら、その中で矢は静止しているのか。 ゼノンの問いは、形を変えて残っています。
刻めば扱えるようになり、刻めば何かが落ちる。その両方を引き受けるしかない、というのがこの2500年の結論に近いところです。