それより大きなものが考えられない存在を思い浮かべます。
もしそれが頭の中にしかないなら、実際にも存在するもののほうがより大きくなります。すると、それより大きなものが考えられない存在ではなくなります。
だから、それは実際に存在するはずです。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
それより大きなものが考えられない存在を思い浮かべます。もしそれが頭の中にしかないなら、実際にも存在するもののほうがより大きくなります。すると、それより大きなものが考えられない存在ではなくなります。だから、それは実際に存在するはずです。
この証明は、成り立ちますか。
この問いには答えがあります。ただ、ほとんどの人が同じところでつまずきます。
この証明を作った人
11世紀の神学者アンセルムスです。
この議論の異様さは、観察をまったく使わないことにあります。世界を見て神の痕跡を探すのではなく、概念の中身だけから存在を導こうとします。
同時代の修道士ガウニロが、すぐに反論しました。同じやり方で、考えうる最も完全な島も存在することになる。 完全な島が頭の中にしかないなら、実在する島のほうが完全だから、と。
アンセルムスは、この反論は神にしか当てはまらない議論を島に誤用したものだと応じました。この応酬が、900年続く議論の出発点になりました。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
定義を疑う。存在することは、大きさのような性質ではない。カントの反論で、決定的とされます。100円を思い浮かべるのと、実際に100円持っているのでは、100円の概念は同じです。 存在は概念に足される性質ではない。
筋道に従う。前提と推論に、はっきりした穴が見つからない。論理としては巧妙で、だから900年以上残りました。
経験を信じる。同じやり方で、考えうる最高の島も存在することになる。ガウニロの反論です。そんな島が無いことは誰でも知っている。その動かない事実のほうを手放さず、同じ形をした推論のほうを疑います。
人の側の限界とする。理性が届く範囲の外の話だ。証明も反証も届かないとみる立場です。神が存在するかどうかは、経験で確かめることも、概念だけで導くこともできない。ここに留まるなら、この900年の応酬そのものが場所違いだったことになります。
カントの反論が、なぜ効くのか
カントの指摘は、存在は述語ではないというものです。
「この机は茶色い」は、机について何かを付け加えています。「この机は存在する」は、机について何も付け加えていません。 ただ、その概念に当てはまるものが世界にあると言っているだけです。
だから、最も完全な存在の概念に「存在」を含めても、その概念に当てはまるものが世界にあることにはなりません。
この反論は広く受け入れられました。ただし完全に終わったわけではありません。 20世紀にも、「必然的にそうだ」「ありうる」といった言い方を扱う論理(様相論理)を使って、マルコムやプランティンガが新しい版を出しています。
議論の形が、面白い
この証明が思考実験として価値があるのは、結論に賛成するかどうかとは別に、推論の構造がむき出しになっているからです。
概念から実在は導けるのか。 この問いは、神を離れても成り立ちます。
数学の対象は、定義されただけで存在すると言えるのか。完全な三角形は、どこかにあるのか。 プラトン以来の問いが、ここに接続します。
いま、この問いが出てくる場所
定義から存在を導く議論は、意外なところに残っています。
理論上あるはずのものを、観測より先に信じる。 素粒子や天体の予言は、この形をしています。数式の要請から存在を導き、あとから観測で確かめる。
ただし決定的な違いがあります。科学の側は、観測で否定される可能性を残しています。 存在論的証明には、それがありません。
否定されえない証明は、証明として強いのか弱いのか。 そこが900年の論点です。