まったく未知の言語を話す人と暮らします。ウサギが走ると、その人はガヴァガイと言います。
ウサギのことでしょうか。それとも、ウサギの一部分、ウサギの出現、白くて速い何か、かもしれません。
どれだけ観察しても、絞り込めません。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
まったく未知の言語を話す人と暮らします。ウサギが走ると、その人はガヴァガイと言います。ウサギのことでしょうか。それとも、ウサギの一部分、ウサギの出現、白くて速い何か、かもしれません。どれだけ観察しても、絞り込めません。
ガヴァガイの意味は、決まりますか。
この問いには答えがあります。ただ、ほとんどの人が同じところでつまずきます。
この問いを作った人
アメリカの哲学者ウィラード・クワインが1960年に出しました。翻訳の不確定性と呼ばれます。
彼の設定は徹底しています。辞書も通訳もなく、共通の言語も無い。 使えるのは、相手が何を見て何と言うかの観察だけ。
そして彼は示します。観察と矛盾しない翻訳の仕方が、複数ある。
ウサギと訳しても、ウサギの分離不可能な部分と訳しても、ウサギ性の発現と訳しても、観察できることはすべて同じになります。
どれが正しいかを決める事実が、そもそも存在しない。 これがクワインの主張でした。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
筋道に従う。観察できることが同じなら、どの訳も同じだけ成り立つ。クワインの立場です。受け入れがたく見えても、観察に出てこない差を根拠にはできない、という一点を最後まで通します。代償は、正しい訳という言い方を手放すことです。
暮らしで決める。使い方を長く見ていれば、実際には食い違わなくなる。実務的な反論です。翻訳者は現に仕事をしています。
言葉の問題とみる。意味は言葉の使われ方の中にあり、指すものを当てる話ではない。ウィトゲンシュタインに近い答えで、そもそも問いの立て方を変えます。
定義を疑う。意味とは何かが、まだ定まっていない。論点の核心です。訳が一つに決まらないのは相手の言葉のせいではなく、意味に何を求めるかをこちらが決めていないから。そこを決めないかぎり、正しい訳という言い方は宙に浮いたままです。
これは、遠い部族の話ではありません
クワインの狙いは、翻訳の技術論ではありません。
同じ日本語を話す者どうしでも、同じ構造がある。 あなたが「ウサギ」と言うとき、私がそれを同じ意味で受け取っている保証は、行動の一致からしか得られません。
行動が一致しているかぎり、意味が違っていても分かりません。
これは箱の中のカブトムシと、ほとんど同じ構造です。ウィトゲンシュタインは意味を使い方に置くことで解こうとし、クワインは決まらないことを認めよと言いました。
「決まらない」と「分からない」の違い
クワインの主張で重要なのは、知識の限界の話ではないという点です。
私たちが知らないだけで、正解がどこかにあるのではありません。正解を定める事実そのものが無い。
だから、いくら調べても決まりません。調べ方の問題ではないからです。
この点で、水槽の脳とは種類が違います。あちらは真実があるが確かめられない。こちらは真実そのものが無い。
いま、この問いが出てくる場所
大量の対訳から翻訳を学ぶ仕組みは、まさにクワインの設定に置かれています。意味を教わらず、対応だけを見て学ぶ。
そしてかなりうまく動きます。これはクワインへの反論でしょうか。
たぶん違います。うまく動いても、どの訳が正しいかは決まらないというのが、まさに彼の論点でした。意味が分からないまま記号を並べて受け答えする中国語の部屋とは、着く場所が違います。あちらは捉えるべき意味があるのに機械がそれを欠くと言い、クワインは、その意味の事実そのものが無いと言います。