向こうの壁まで歩くには、まず半分まで行かなければなりません。その前に、その半分まで。さらにその半分まで。
始める前に済ませるべきことが、無限にあります。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
向こうの壁まで歩くには、まず半分まで行かなければなりません。その前に、その半分まで。さらにその半分まで。始める前に済ませるべきことが、無限にあります。
壁まで、たどり着けますか。
この問いには答えがあります。ただ、ほとんどの人が同じところでつまずきます。
アキレスと亀より、たちが悪い
同じゼノンのパラドックスですが、こちらのほうが厄介です。
アキレスと亀は、追いつくまでに無限の段階がありました。それでも走り出すことはできます。
二分法では、最初の一歩を踏み出す前に無限が待っています。 半分の半分の半分…と遡っていくと、最初にすべき動きが定まりません。
終わりの無限より、始まりの無限のほうが手ごわい。 動き出す瞬間そのものが不可能に見えるからです。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
計算で確かめる。無限に分けても、かかる時間の合計は有限に収まる。アキレスと亀と同じ数学的解決です。ただし、始まりの側の問題には完全には答えていません。
経験を信じる。現に歩けているのだから、議論のどこかが間違っている。アリストテレスは、無限に分けられることと、実際に分かれていることは違うと応じました。分けられる可能性があるだけで、無限個の段階が実在するわけではない。
筋道に従う。始められないなら、そもそも動けない。ゼノンの立場です。彼にとって、これは運動が幻である証拠でした。
分けない。歩くという一つの動きを、後から刻んだのが誤りだ。ベルクソンの批判です。動きは切れ目のない一つのもので、点の集まりに置き換えた時点で別のものになっている。無限に分けられるのは、実際に歩くことではなく、それを写した線のほうです。
アリストテレスの区別が効きます
可能的無限と現実的無限という区別を、アリストテレスは立てました。
線分は、いくらでも分けることができます。ですが、実際に無限個に分かれて存在しているわけではありません。
分けるという操作は、私たちが持ち込むものです。歩いている人は分けていません。 分けたのは、あとから見ている観察者のほうです。
この区別は、いまも生きています。 数学が無限を扱えるようになったあとも、実在としての無限があるかどうかは別問題として残っています。
三つ並べると、ゼノンの狙いが見えます
アキレスと亀は、追いつく側から攻めました。二分法は、始まる側から攻めました。飛ぶ矢は、分けられないとしたらという逆方向から攻めました。
三方向から囲んでいます。分けられるとしても、分けられないとしても、運動は説明できない。
ゼノン自身は答えを出していません。常識のほうが困る形を、いくつも作って置いていった。 それが彼の仕事でした。
いま、この問いが出てくる場所
計算機は、連続した量を有限の刻みに置き換えて扱います。どこまで細かく刻んでも、刻みである以上は連続そのものではありません。
物理でも、空間や時間に最小の単位があるのかという問いが立てられています。もし最小単位があるなら二分法は途中で止まり、無ければゼノンの問いは残ります。
2500年前の問いが、まだ物理学の未解決部分に接しています。