全員が箱を持っていて、中身は自分だけが見られます。全員が中身をカブトムシと呼びます。
中身は人によって違うかもしれません。空かもしれません。誰にも確かめられません。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
全員が箱を持っていて、中身は自分だけが見られます。全員が中身をカブトムシと呼びます。ですが中身は人によって違うかもしれませんし、空かもしれません。誰にも確かめられません。
カブトムシという言葉に、意味はありますか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問いを作った人
ウィトゲンシュタインが、死後に出版された著作で書いた例です。箱の中身は、痛みや感覚のことを指しています。
彼の狙いは、私的言語という考え方を崩すことでした。痛みという言葉は、自分だけが感じている何かに名前を付けたものだという素朴な見方があります。ウィトゲンシュタインはそれを疑いました。
もし言葉の意味が箱の中身だとしたら、中身が人によって違っていても、空でも、言葉のやりとりは何も変わりません。 変わらないなら、中身は意味を決めていないことになります。
痛みという言葉のやりとりから、箱の中身は抜け落ちる。 それが彼の結論です。言葉は、やりとりのなかで役割を果たしているかぎりで意味を持つ。中身はその役割に入ってこない。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
手がかりで決める。中身は確かめられないが、みな似たものを持っていると考えてよい。確かめられないことは、それだけでは疑う理由にならないという立場です。自分に痛みがあり、相手も同じようにふるまうなら、そこから推し量る。ヒュームは他人の心をこの推し量りで説明しました。ウィトゲンシュタインの狙いは、その推し量りが実は要らないことを示す点にあります。
内側があるかで決める。それぞれの箱の中身こそが、その言葉の意味だ。デカルト以来の見方で、直観にはいちばん合います。痛いという言葉は、あの痛みを指しているに決まっている。
分からないとする。確かめられないものを指す言葉は、指すものを持たない。厳しい立場ですが、検証できないものを退けるという点では一貫しています。
言葉の問題とみる。中身を持ち出すこと自体が誤りだ。これがウィトゲンシュタイン本人の答えです。 言葉が通じるのは、中身が一致しているからではなく、使い方の練習を一緒にしてきたからだ、と。
「通じている」ことの根拠が、ずれます
この例が効くのは、通じていることを説明する向きを逆にするからです。
ふつう私たちは、同じものを感じているから言葉が通じると考えます。ウィトゲンシュタインは逆に、言葉が通じているという事実のほうが先で、同じものを感じているという想定はそこにぶら下がっているだけだと言います。
だから、中身が違っていても困りません。赤の見え方が人によって逆さまでも、赤という言葉の使い方が揃っていれば、日常は変わらない。 少なくとも、そう想定するのがこの思考実験の設定です。
いま、この問いが出てくる場所
AIが「うれしい」「つらい」と言うとき、私たちはその箱を覗けません。覗けないのは、人間相手でも同じです。
ウィトゲンシュタインの答えを取るなら、判定の仕方が変わります。中身があるかを問うのではなく、その言葉を場面に応じて正しく使えているかを見る。 使い方が揃っているなら、通じている。
この基準を機械にまで広げてよいのかどうかは、まだ誰も決めていません。