荘子が橋の上から川を見て言いました。魚が楽しそうに泳いでいる。
連れの恵子が返します。君は魚ではないのに、どうして魚の楽しさが分かるのか。
荘子が答えます。君は私ではないのに、どうして私に分からないと分かるのか。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
荘子が橋の上から川を見て言いました。魚が楽しそうに泳いでいる。連れの恵子が返します。君は魚ではないのに、どうして魚の楽しさが分かるのか。荘子が答えます。君は私ではないのに、どうして私に分からないと分かるのか。
魚が楽しいかどうかは、分かりますか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問答が載っている本
『荘子』秋水篇に出てくる問答です。この本は荘子という人の名を冠していますが、秋水篇は後の弟子たちがまとめた部分で、本人が書いたものではないとみられています。以下、問答のなかで語る人物を荘子と呼びます。相手役の恵子は論理を得意とする論客で、二人はよく議論をしています。
この問答の切れ味は、荘子の返しが恵子の論法をそのまま折り返しているところにあります。恵子は「他人ではないから他人のことは分からない」と言った。ならばその規則を恵子自身に当てはめれば、恵子は荘子のことが分からないはずで、分からないと断言することもできなくなります。
そのあと荘子は、もう一つ別の答え方をします。私は橋の上で分かったのだ、と。理屈でなく、その場所でそう見えたのだから、それでいい。
論理で切り返してから、論理の外に出る。この二段構えが、この問答の面白さです。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
ふるまいで決める。動きを見れば、楽しんでいるかどうかは伝わってくる。私たちが実際にやっていることでもあります。犬が尻尾を振れば喜んでいると判断し、その判断はたいてい当たります。
内側があるかで決める。魚の内側で起きていることは、外からは届かない。恵子の立場で、デカルト以来の西洋哲学の主流でもあります。
生きものかで決める。魚と人では、体のつくりが違いすぎる。神経系の構造が違えば、経験の形も違うはずだという考え方です。
分からないとする。確かめる方法がそもそも無い。判定不能を認める立場です。ソクラテスの無知の知に近く、分からないことを分からないままにしておく。
他人の心の問題を、2300年前にやっていた
西洋哲学では、他人に心があるかという問題は近代になって本格化しました。デカルトが心と体を分けたあと、他人の心をどう知るのかが宿題として残ったからです。
荘子と恵子は、それを紀元前にやっています。しかも動物相手で始めたところが違う。人間どうしなら「自分と似ているから」で押し切れますが、魚では使えません。難しいほうから入っている。
そして荘子の結論は、西洋のそれとは違いました。分かるか分からないかを決めないまま、橋の上で楽しそうに見えたという事実のほうを手放さない。 自分が蝶の夢を見ているのか、蝶が自分の夢を見ているのかを決めずに終える、胡蝶の夢と同じ身のこなしです。
いま、この問いが出てくる場所
動物に痛みがあるかは、法律の問題になっています。魚が痛みを感じるかは科学の側でも決着しておらず、国ごとの扱いの差は、その不確かさの上に置かれた判断の差です。
AIについても同じ問いが来ました。相手は魚よりさらに遠く、体すら持ちません。
恵子の規則を厳密に守れば、私たちは誰のことも分かりません。それでも日常が回っているのは、私たちが荘子の側で暮らしているからです。橋の上で、そう見えたから、そうなのだと。