実験のために動物を使うと、多くの人の病気が治る見込みがあります。動物は痛みを感じますが、言葉で訴えることはできません。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
実験のために動物を使うと、多くの人の病気が治る見込みがあります。動物は痛みを感じますが、言葉で訴えることはできません。
実験を、認めますか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
ベンサムが線を引き直しました
18世紀のベンサムは、動物について短いが決定的な一文を残しています。
問題は、理性を持つかどうかでも、話せるかどうかでもない。苦しむことができるかどうかだ。
当時、動物を配慮の外に置く理由は、たいてい知性でした。デカルトに至っては、動物には思考も意識もなく、複雑な機械にすぎないと考えていました。痛みまで否定したかどうかは、本人の記述に争いがあります。
ベンサムは基準を入れ替えました。知性ではなく、感覚のほうへ。 この一手で、線の引き場所が根本的に変わります。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
生きものかで決める。人の命が助かるなら、その差は大きい。種の違いを、そのまま重みの違いとして扱う答えです。ただし、これを功利主義の名前で言うことはできません。功利主義は本来、種で重みを変えないからです。この答えを取るなら、人と動物のどこが違うから重みが変わるのかを、痛み以外の言葉で言う必要が出てきます。
弱い側に寄せる。痛みを感じるなら、種が違っても同じように数えるべきだ。シンガーの立場で、種差別という言葉を彼が広めました。人種や性別で扱いを変えるのが不当なら、種で変えるのも同じではないか、と。
本人が決める。訴えられない相手に、同意なく行うのは筋が通らない。同意という条件を、言葉を持たない相手にどう適用するかという問題です。
決め方をそろえる。条件を決めて認める。実際の制度がここにあります。 動物実験には、代替法の検討、数の削減、苦痛の軽減という原則が定められています。
「痛みを感じる」の線も、はっきりしません
ベンサムの基準は明快に見えて、実際には難しい問題を含みます。
魚は痛みを感じるか。エビは。昆虫は。 神経系の構造は調べられますが、そこから感じの有無へ渡る橋がありません。コウモリの問いと同じ壁です。
そして線を引いた場所によって、扱いが大きく変わります。EU ではタコやイカなどの頭足類が実験規制の対象に含まれ、日本では含まれていません。 同じ生き物が、場所によって違う扱いを受けます。
カントは、別の理由で反対しました
カントは、動物そのものに義務は無いと考えました。義務は理性的な存在に対してのみ成り立つからです。
それでも彼は、動物への残虐さを禁じました。理由は動物のためではなく、人間のためです。動物に残酷にふるまう習慣は、人間に対する態度も鈍らせる。
守るべきものが違えば、同じ結論に別の道から着きます。 そして道が違えば、限界も違います。カントの理屈が守っているのは動物ではなく人間の側です。人間への態度が鈍らないと言えるかぎり、動物をどう扱ってもよい。 そこが抜け道です。
いま、この問いが出てくる場所
実験動物、畜産の飼育環境、ペットの扱い。どれも線引きの位置が動き続けています。
そして技術が線を動かします。培養肉が普及すれば、畜産の議論は変わります。 動物実験も、細胞や計算で代替できる範囲が広がっています。
倫理の問いが、技術によって解消されることがある。 これは珍しい例です。