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懺悔道としての哲学

ざんげどうとしてのてつがく

田辺元·現代

田辺元が戦後に自らの哲学を根底から問い直した主著

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哲学

この著作について

京都学派の哲学者・田辺元《たなべはじめ》が、戦時中に自身が展開した種の論理が結果として軍国主義を哲学的に支えてしまった経験への深い自責のなかから著した戦後哲学の転回作。

【内容】

本書はまず、自力的な理性の哲学が敗戦と自身の過ちを前にして完全に行き詰まったことを正直に認める告白から始まる。田辺はここで、親鸞《しんらん》の絶対他力思想を哲学の方法に取り入れることを試み、「懺悔」を通じて自らが一度死に、再び他力によって甦る「死復活」の論理を描く。理性は純粋な能動性ではなく、徹底した受動性を経由して初めて行為へ開かれる、という構造が展開される。単なる信仰告白ではなく、倫理学・歴史哲学・宗教哲学を縦に貫く哲学の書でもある。

【影響と意義】

戦後日本の哲学における稀有な自己批判の書として、京都学派内部の西田幾多郎《にしだきたろう》の絶対無《ぜったいむ》の哲学に対する重要な対抗軸となった。知識人の戦争責任を哲学的に引き受けた仕事として、近年の日本哲学史研究でも再評価が進んでいる。

【なぜ今読むか】

自分の過去の判断が間違っていたと気づいたとき、人はそこからどう再出発できるのか。本書はその問いに対して、安易な自己弁護にも厳格な自責にもとどまらない、哲学的でありながら宗教的な第三の道を示してくれる。

さらに深く

【内容のあらまし】

本書は田辺元が敗戦直前に着想し、戦後直後に刊行した著作である。題名にすでに本書の主題が刻まれている。哲学はもはや純粋な理性の体系として自分を立てることはできない、ただ懺悔の道としてのみ続けうる、というのである。

冒頭、田辺自身の率直な告白から議論は始まる。彼は戦時中、京都大学で『種の論理』を講じ、民族と国家を哲学的に基礎づけようとした。その思考が、結果として軍国主義を哲学の名において支える効果を持ってしまったこと、しかも自分はその時、自分の論理に対して十分な批判的距離を取れなかったことを、彼は隠さない。敗戦のなかで、自分の哲学そのものが破綻したという経験から、本書の出発点が定まる。

第一の問いは、「自力的な理性は本当に自分を裁けるのか」である。理性が自分の誤りを反省するという仕草は、結局のところ反省する側の理性を温存してしまう。本当の意味で根本から自分を裁くには、理性は一度自分の死を経なければならない、と田辺は言う。ここで彼は親鸞の絶対他力思想を哲学のなかへ呼び込む。自分で自分を救おうとする努力をすべて放棄した地点で、他からのはたらきによって甦る、という構造が、哲学の方法そのものに移植される。

中盤、田辺は「死復活」のロジックを丁寧に展開する。懺悔とは、自分の過去の誤りを並べ立てて点検することではない。それは、自分の存在そのものを支えていた前提が完全に崩れる経験であり、そこを通り抜けたあとに、自分ではない他からの力によって、もう一度立ち上がるという出来事である。理性は能動的な構築力としてではなく、受動性のなかで再びはたらき出す力として再定義される。

後半では、この方法が倫理学、歴史哲学、宗教哲学へと展開される。歴史は人間の自由意志による進歩ではなく、無数の挫折と再生のなかでなされる絶対他力の働きとして読み直される。社会哲学の領域でも、独裁的国家ではなく、互いの過ちを赦し合う共同体の理念が描かれる。

本書を読むと、自分の正しさに固執していた感覚が静かにほぐれ、まったく別の地点から再出発する道が示されているのを感じる。

著者

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